三谷孝編『戦争と民衆』

 濱谷正晴さんより本が届いていた。面と向かっては先生と呼ぶことが多かったが、ゼミなどでは「先生と呼ぶな」というようなことをおっしゃっていた。だから、ここでもさん付けで呼ぶことにする。この本は、一橋大学での研究会の成果をとりまとめたものである。原爆体験、沖縄戦、中国大陸での戦争など、社会学社会学研究科が積み上げてきた研究成果が、共同研究にもいかされている。いわゆる「つまみ食い」ではなく、しっかりとした被爆者研究、原爆体験研究を継続する人々も現れていることを知ることができた。本のカバーの説明文などを詳しく抜き書きしておく。

三谷孝編『戦争と民衆―戦争体験を問い直す』

表紙カバーより

◇本書は、一橋大学大学院社会学研究科において、2003年4月より3年間にわたって続けられた『先端課題研究4 戦争と民衆――戦場・銃後・伝承』の中心的な成果をまとめたものである
◇戦争は人類の歴史とともに古くから存在してげんだいにいたっているが、それが国家・社会に与える重大な影響から、常に強い関心の対象とされてきた。20世紀に発生した戦争の多くは近代兵器を駆使した総力戦として、戦闘員だけでなく非戦闘員である多くの民衆を巻き込む大規模で悲惨な戦禍をともなうものとなった。戦争に巻き込まれた民衆の立場からその体験を記した無数の記録は残されているものの、これまでの戦争史研究においては、主として戦争発生の原因、開戦に至外交史、戦争の経過、勝敗の分岐と戦争の終結、戦後処理など戦争に直接関わるプロセスが検討の対象とされることが多かった。
◇本書の課題は、兵士や労働者として戦争に動員される、住み慣れた町や村が戦場となって悲惨な戦禍を被る、戦争に協力して戦時体制を支える、戦争遂行に抵抗する等々、さまざまな立場において戦争に巻きこまれた民衆側の視点から、戦争によってもたらされた未収生活の直接・間接の被害、戦争の記憶・伝承、戦時下の教育などの諸問題を、多様な専門分野(社会史・思想史・社会学・教育学)の、研究の対象とする地域(日本・朝鮮・中国・ヨーロッパ)も異なる研究者が協力して多角的に検討することにある。

目次

はじめに 三谷孝
第1部 総論―戦争体験を問い直す
 第1章 “戦争体験”―その全体像をめぐる“人間”の営み 濱谷正晴
 第2章 東井義雄の戦中・敗戦経験とペタゴジー―戦後教育実践に刻んだもの 木村元
第2部 原爆体験
 第3章 原爆被害者と「こころの傷」―トラウマ研究との対話的試論 直野章子
 第4章 ある被爆者の原爆体験と証言活動―その思想的営為 源氏田憲一
第3部 沖縄戦
 第5章 沖縄戦と民衆―沖縄戦研究の課題 林博史
 第6章 本土における沖縄戦認識の変遷―軍隊と民衆の関係という論点をめぐって 小野百合子
第4部 中国大陸での戦争に関連して
 第7章 中国における戦時性暴力をめぐる記憶と記録 内田知行
 第8章 ある「シベリア抑留」のライフストーリー―自分史のなかの戦争の記憶 佐藤美弥
 第9章 中国東北地区における挑戦部族について―中華人民共和国建国期を中心に 李海燕
 補論 「防衛のための戦い」の記憶―中世ノルウェーのレイザングルについて 阪西紀子

 濱谷さんの論考は、久々に自らの方法をしっかりと語ったものとなっていて、専門は違うが、かつて、受講者として社会学研究の芯をつくっていただいた者としては、非常に興味深いものがある。専門はだいぶ違うが、濱谷さんには、学部、大学院とゼミなどでお世話になった。これは前にも述べたことがある。ミルズとの出会いは二年生の濱谷ゼミにおいてであり、三年生、四年生、五年生では社会調査第二というゼミよりシビアな授業の受講を通して学び、大学院では5年間副指導教員をしていただいた。高田純次が嫌いとおっしゃっていたことがあり、人格的には自分とは水と油だと思うし、そういう意味でよく怒られた。こちらも被爆者研究というコアな部分には一切関わらず、社会調査史的なことを教えてもらうことに徹した。ゼミでは、リンド、ウェッブなどの著作を熟読した。
 本に付された書簡には、前著『原爆体験』のエッセンスに、フィールドワーク、戦争メモリアル、平和の思想といった学部、大学院の講義でとり組んでこられたことを加味して書かれた論考であると、説明されている。また、講演などの場で、著作や講義の内容を話し、またさらにそこから学びという作業をくり返して、紡ぎ出された文章であることが書かれている。「注がそのことを物語ってくれています」とのことである。
 ふつうはこういうセリフはあまり意味がないことも多いのだが、濱谷さんの場合はガチでこの通りであることは、私はよく知っている。社会問題をつまみ喰いするために、使える理論、道具立てをつまんでくるような発表をすると、そこそこの理論構成と理論展開をしていても、すごく怒られた。逆に、抜き書きや生のドキュメント資料にコメントを加えただけのノートのようなものであっても、評価される場合もあった。学生時代を思い出しながら読み、学問的なフラストレーションが多少なり緩和されるように思われた。