橋元良明編『メディア・コミュニケーション学』

 成城大学での非常勤がはじまった。昨年度ゆるゆるぐだぐだの講義をしてしまったせいか、多くの学生さんたちが集まっている。しかし、ゆるゆるぐだぐだ話していたら、けっこう減ったので、ちょっと助かった気はしている。話した内容は、徒然なるままであるが、やはり最近こだわっているマクルーハンのメディアの法則論にたどり着いてしまう。本務校では、コミュニケーション学科というものがあるから、うかつにメディアやコミュニケーションの講義はできないものの、佐藤毅門下であることを考えれば、成城大学で話すことにはばかることはないので、めいっぱい話した。
 マクルーハンは、昨年末よりいろいろ読み直している。メディアの法則論を再三熟読するとともに、いろいろな論文を読んでいる。宮澤淳一マクルーハンの光景 メディア論がみえる』を一応ゼミテキストにするつもりなので、同氏の「グールド、マクルーハン漱石――聴覚的空間と『草枕』の詩学」(『みすず』第474号、00年9月)といった論文があることを知った。浜日出夫氏の「マクルーハンとグールド」などと対照しながら、熟読している。そんな折しも、学校にきたら、辻大介さんと南田勝也さんから、書きの本が届いていた。ありがとうございました。

メディア・コミュニケーション学

メディア・コミュニケーション学

BOOKデータベースより

加速するメディアの革新は、情報を、社会を、そして人間をどのように変えていくか。

目次:

第1部 メディアの拡張
「声の文化」から「インターネット」へ―コミュニケーション・メディア発展史概観(橋元良明)
電話の発展―ケータイ文化の展開(松田美佐)
映像メディアの展開―テレビの登場そして未来(小平さち子)
活字メディアの変遷―本、新聞の行方(辻大介
音声メディア―ラジオとユース・カルチャー (南田勝也)
インターネット革命―私たちのコミュニケーションを変えたもの(三浦麻子)
第2部 情報社会のコミュニケーション
テレビ映像が脳の発達に及ぼす影響(橋元良明)
テレビとテレビゲームの攻撃性・暴力への影響(森康俊)
ケータイ、インターネットと人間関係(辻大介
電子空間のコミュニケーション―ネットはなぜ炎上するのか(是永論)
ヴァーチャル・コミュニティ(三浦麻子)
メディアと世論形成―重層的なネットワークの中で作られる現実(是永論)
メディア・リテラシー―メディアと批判的につきあうための方(見城武秀)

 もちろんまだめくった程度であるが、目次を見て、脳裏に浮かんだのはやはりマクルーハンである。聴覚文化とインターネットというと、『グーテンベルグの銀河系』『メディア論』の時期のマクルーハンの議論を思い出すが、もちろんその次元にとどまるものではなく、文献サーベイと調査研究の積み重ねの上に、堅実で実質的な議論が展開されている。たとえば、辻さんは活字メディア論を前半で論じ、後半で調査を重ねてこられた人間関係論をコンパクトに紹介されている。理論と実証のバランスがとれていて、読み手に堅実な学習効果をもたらす本であると思った。
 南田さんは、効果論と受容理論というようなメディア論の基本文脈をコンパクトにまとめながら、音声文化としてのラジオについて触れている。ロックミュージックの専門家が、ヘイトアッシュベリーな文化論を隠し味にしながら、せめぎ合いの構図を整理されているのは興味深かった。『デジタルメディア・トレーニング』で提示されたブロードキャスティングとエゴキャスティングという議論を再論されているのは、大注目だ。前稿をやや補充する議論もあるようなので、前著で持った「なぜキャラキャスティングではないか?」というような疑問を重ね合わせて思索してみたいと思っている。
 今この時点で、南田さんの議論で面白いと思うのは、正統性と遍在性の循環というか、非正当な文化=遍在性の文化が正統化されるという図式でポピュラー文化を論じたところである。それは最近気づいたことである。
 少しマクルーハンに毒されすぎなのかもしれないが、脳の話だとか、どこもかしこもマクルーハンを思いだしてしまう。ダイレクトには論じられていないので、より面白く考えることができるように思われた。だいたいにおいてマクルーハンというのは、実証データの裏付けがない思いつきという批判もあるわけで、着実な理論構成と実証による研究においては、必要最小限以上にとりあげるべき議論ではないというのは、斯界の常識とも言える。私も、「間」だとかいうなにやらうさんくさい議論に入り込まなければ、できれば無視していたいものである。しかし、その辺の引け目を、アカデミックな本格的な議論と照らし合わせるのは、とても面白いことでもある。