河村望『帝とかぐや姫』

 パチンコ冬のソナタ2は、朝一でならばないかぎりできないんじゃないかというくらいの盛況である。テレビCMの効果だけでもなく、あの手応えよもう一度という人も多いんだろう。そんなわけで、日曜日にはパチンコに行くこともなく、国際プールに直行。混み合っていて、スピードがのろかったので6000メートル泳いだ。しかし、一日2時間〜4時間運動しているわけだが、アホみたいになにもできないわけで、メシをグッと減らして、少しは勉強しないといけないなぁと思う。いよいよ来週金曜日から授業がはじまるわけだし。横浜から戻ったら、河村望先生から本が届いていた。

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本の内容

学問のすすめ』で『源氏物語』で否定された和魂漢(洋)才を蒸し返し、旧知のジョン万次郎をひたすら無視、井伊直弼を“見せかけの開国論者”に仕立て上げようとする福沢諭吉の狙いは何か。

目次

序章 福沢諭吉と『学問のすゝめ』
 和魂和才の学問
 福沢諭吉と太田資美
 自治と道徳―佐倉宗五郎
 福沢諭吉と森山多吉郎
 福沢諭吉井伊直弼批判
第1章 『竹取物語
 五人の貴公子の求婚
 仏の御石の鉢と蓬莱の玉の枝
 火鼠の皮衣と龍の頚の玉と燕の子安貝
 御門の求婚
 かぐや姫の昇天
 竹取の翁の歌
第2章 『伊勢物語
 都鳥
 武蔵野
 筒井筒
 蛍と源の至
第3章 「ひらかな盛衰記」
 木曽義仲の討死
 山吹御前の都落ち
 道行君後紐
 傾城無間の鐘
 逆櫓松と矢箙梅
終章 社会学における再構築
 歴史と実在
 心像としての実在

書状が添えてあり、「デューイと新渡戸と東女のことにふれているのであえてお送りする次第」と書いてくださっている。おそらくはこれは河村先生の出された宿題なのだろうと思う。
 おりしも卒論で新渡戸稲造の修養主義について論じた面白い作品が出たところで、筒井清忠竹内洋などの著作における「立身出世主義と修養主義」という議論は、一方で中流社会から格差社会、「心理学化する社会」などとも対比でき、他方でウェーバープロテスタンティズムの経済倫理という問題と対比できるというようなことを、その学生の作品から学んだところであり、新渡戸稲造というのも少しは勉強してみないといけないなぁと思っていたので、先生の意図したところを考えながら、じっくりと勉強させていただこうと思う。
 河村先生が女子大を退職される年に大学院ゼミを開講され、ひとりの受講者があったのだが、そこに私も出席させていただき、いっしょに勉強した。先生は、ミードのことばかり教わろうとする私に、デューイを勉強しろと繰り返し説かれた。最近でこそ、門脇俊介の著作を読んだりして、デューイを体系的に読むことについてかなり前向きになっているが、当時はからっきしだった。
 とぼけたような独特の表情で、怪気炎をあげ、毒々しく語ることは、かなりパンクな物言いではあるものの、ときおり頭をハンマーで打ち据えられるような衝撃ある洞察を示された。講義のあと、余韻を反芻するのはほんとうに充実した時間だった。竹取物語伊勢物語について自説を展開されるのだが、奇想天外ながら、日本文化の深奥に迫ろうとみなぎる気持ちがものすごいドライブ感でたたみかけられてきた。語りのアクを除去しつつ、内容を整え、まとめたのが本書である。
 アクを除去してあるとはいえ、すごいことがガツンと書いてある。たとえば、あとがきのアーネスト・サトウの文章を引用しながら、書かれていることなどは、演習で何度も話されていたことだが、ついに書いてしまったかという感じである。ここだけでも読んでみる価値があるように思う。明治維新をめぐるぶらっくな洞察だが、そこから福澤、新渡戸と見てみよということなのだろうと思う。