バウマン『リキッド・ライフ』

 私どもの業界には、「若書き」ということばがあり、若いが故の青臭いスタイルや、勇ましい筆致などということもあるけれども、猛烈に勉強した内容を少ない枚数で書こうとするが故の産みの苦しみというようなこともあると思う。すべてを調べ尽くし、表現したいものは膨大で、しかし枚数は少ない。長編を書くチャンスを与えられる者は少ない。特に、査読論文量産主義の昨今はそうだろう。書ききって、博士論文にしても、なかなか本屋さんは出してくれない。若い優秀な人のなかには、懊悩に満ちた作品がたくさんある。
 とある大先生が、「私もむかしは書くものがむずかしいといわれましたが、今はいわれません」とおっしゃっていたのを思い出す。幾分自嘲気味の発言で、その理由は、いくつかの争点に対し、むち打つよういして、ピシピシと小出しにするようになったら、ワンパターンの量産体制に入り、わかりやすく書くコツ、ウケるコツがわかってきたのはいいけれども、そんなものは所詮筆先で、重厚に調査を重ねたものや、文献考証を重ねたような研究を踏まえていないと、どうだ賢いだろうと言っていられるうちはいいけど、そのうちそうも行かなくなり、枯れ果てる、というのが、「わかりやすくなった」ことの意味だとすれば、しょーもないことだというようなことだった。非常に厳しい姿勢に敬意を覚えた記憶がある。デリダみたいに、若い頃はともかく、途中からわけわかめになっていくのが本物っつぅことっすかね、とゆったら、力なく笑っていらっしゃった。
 そんなことを考えながら、今年度の講義を締めくくり、部屋に戻ったら、大月書店から本が届いていた。開けてみると、訳者の長谷川啓介さんからで、矢澤修次郎退官パーティーで会釈をしたことがあるくらいで、お話ししたことはないのだが、先日献本したのでくださったんだと思う。申し訳ないかぎりであります。私が献本したのは、共著者の中村好孝と本を書いている過程で、何度も長谷川さんのお名前、ご発言を耳にしたからである。ミルズが博士課程時代を過ごしたウィスコンシン大学、それからニューヨークに移ってから若干の関わりを持ったニュースクール大学などへの留学経験をもつ人で、体調を崩していらっしゃった時期もあったようだが、リハビリとして訳業に打ち込み、公刊に至ったようである。病気はたぶん違うと思うのだが、私もM2から十年近く病気に苦しみ、やっとの事で本を出したこともあり、単訳が公刊されたおよろこびは格別であろうと拝察した。近々メルッチの訳も出るようで、ご活躍を期待したい。

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廃棄に怯えつつ、個性を求める現代人。消費の永久運動に組み込まれたわれわれは、そのなかでどう生きるのか? 現代に潜む悲惨と希望への社会学的洞察。バウマン社会学のエッセンスがつまったイントロダクション。


現代社会のリアルをうつす、もっとも鮮やかな思考


「手短に言えば、リキッド・ライフとは、不安定な生活であり、たえまない不確実性のなかで生きることである」。資産であったものが負債に、能力であったものが障害にあっという間に変わってしまう現代社会。持続ではなくスピード、所有ではなく廃棄が要求される私たちの日常生活の困難を描き出し、それでもなおこの時代に自由を希求し、思考しつづけることの意味を指し示す。


【目次】
序 論 リキッド・モダン・ワールドを生きるということ
第一章 包囲された個人
第二章 殉教者から英雄へ、英雄から売れっ子へ
第三章 文化――言うことを聞かず管理できない
第四章 パンドラの箱に庇護を求めて――不安・セキュリティ・都市
第五章 リキッド・モダン社会の消費者
 消費する生活/消費する身体/消費する子ども時代
第六章 流砂の歩き方を学ぶ
第七章 暗い時代に思考すること(アレントアドルノを再び訪ねて)
http://www.bk1.jp/review/0000463270


 まだめくった程度だが、驚いたのは巻末の解題である。賃貸マンションへの入居という身近な例を用いながら、バウマンの社会学について解説している。と言えば、あたりまえのように聞こえるかもしれないが、その解題は本文からの細かい引用文によって構成されており、引用ページが明記されているのである。読者は、この解説文でストンと腑に落ちる解説を得ながら、原文を丁寧に参照することができる。そして、見田宗介現代社会の理論』などと比較しながら、論は展開されている。講義経験に基づき、今時の学生たちにもわかりやすい話をしながら、他方では、一切の妥協はしないで、原典主義を貫いているようにも見え、教師としての力量を感じた。