大学に来たら光文社から本が届いていた。三浦展氏がすばやく三章でも書いたのか、だったら、いち早く告知しておくと、いいかもしれないと思ったら、日曜に本屋で買った『合コンの社会学』だった。執筆者は二人いるが、元バイク便ライダー氏のほうは来年度からうちの大学で非常勤をやっていただくことになっている。そんなこともあり、学会の際ごあいさつしたのだが、もしかすると暑苦しいコテコテのぢぢいが、若きホープにブイブイゆわしたと思われたのかもしれない。だとすると申し訳ない限りです。ありがとうございました。うちの大学の薄給なので、四月の非常勤手当が振り込まれたときに、「本なんてやるんじゃなかった」と思われるかもしれません。
- 作者: 北村文,阿部真大
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2007/12/13
- メディア: 新書
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内容
求めるのは、「理想の相手」か、「運命の物語」か。本書は、きわめて社会学的現象である、合コンという営みに隠された意味を、白日のもとにさらす。本邦初の合コンに関する、アカデミックな研究書。
内容紹介にもあるように、上野千鶴子ゼミの俊秀が書いた「アカデミックな研究書」ということがポイントなのだと思う。むかしこういう本が出たとして、表紙にマンガが添えられるとしたら、例外なく柴門ふみだったんじゃないかと思う。安川一たちがつくった『ジェンダーの社会学』を思いだした。まあしかし、姫子さんや桃子さんや、あるいはマイ・リトルタウンからどこまでもどこまでも泳いで遠ざかった地方都市の少女とかは、何となくクリスタルではなく、フォーキーで、そこそこ自分をもっていて、今っぽくないなぁとは思うのであった。
著者たちは、そのことを十分に自覚していて、185ページ以降柴門の『同・級・生』を引用し、その主人公である重田加代子というタイプについて、考察を加えている。小憎らしいまでの、行き届いた分析に、おぢさん、ヲバさんたちもがっつり満足するに違いない。で、今時の合コンの分析において、添えられるべきはたとえば倉田真由美などもあるのかもしれないが、それだと「アカデミックな研究書」にはならないかも知れない。っぽきゃいーってもんじゃないだろうし。でも、っぽいことは、っぽいとは思うけど。
で、何が添えられていたかというと、安野モヨコ「ハッピー・マニア」で、オールド世代だと、「なんだよ、シンデレラかよ」などと切り捨てたくなるのかも知れないが、そんなこと言う椰子は、結局ハチクロも、スガシカオも、村上春樹もなにもかにもウニウニで、なんにもわかっちゃいないっつぅことかね、という気もした。ムキになってそう訪ねたとしたら、弱々しく笑ってつれなく受け流すような、凶暴なまでに繊細な、ガラス細工のようなボーダーラインが、今時の若者にはあるんじゃないかという実感がしてならない。
それを、「間」の社会学ということで考えてみようというのが、ここ数年やっている研究ということもあるが、ペラペラとめくった範囲で1番目についたのは、次の箇所だ。これは、自分の本で言ったことと近いし、また、長谷正人さんや太田省一さんが近著で言っていたこととも近いと思う。さらには、世界思想社の『文化社会学への招待』、そして井上俊、さらにはジンメルやバフチンやケネス・バークやミルズやヴェブレン。私はそうしたものから多くを学んだだけなのだけれども。
しかし、団塊ジュニアの若者たちの多くは、「やりたいこと」に没入するバイク便ライダーのようにも、純愛にのめり込む重田加代子のようにもなれない、中途半端な状態にあることに注意しなくてはならない。
「三低の男」しこうだけでもなければ「運命の物語」志向だけでもない。「公務員」志向だけでもなければ、「やりたいこと」志向だけでもない。彼らはその両極を揺れ動いている。
だから、両者のあいだを揺れ動いていればよい、というのが、きっと正解なのだろう。「公務員」志向にがんじがらめになりながら、石橋を叩きながら生きるのもつまらない。「三低の男」と結婚生活を続けるのも味気ない。ならば、そのあいだをかいくぐりながら、ほどほどに自由に、ほどほどに安定を求めながら生きてみよう。多くの人が実践しているであろう、この中庸の生存戦略にこそ注目しなくてはならない。
バイク便ライダーたちが労働組合をつくったように、「やりたいこと」志向のなかに、少しだけ「公務員」志向をまぎれこませてみよう。合コンで求められる「運命の物語」のなかに、少しだけ打算をまぎれ込ませてみよう。「やりたいこと」と「公務員」、純愛と打算、自由と安定の、その中間にこそ、持続可能な、私たちのこれからの「しあわせ」のかたちがあるのかもしれない。
「やりたいこと」も「運命の物語」も両方とも、身軽に、したたかに、力強く、それについては仕事も恋愛も同じである。(同書 187−188)
著者たちに「ほどほど」「少しだけ」を理論的に突き詰める時間がたくさん残されていることを正直うらやましく思う。糸口となる、理論の厚みを予感させる文言は、至る所に発見できる。その根拠となる事実をたくさん蒐集し、調査されている事実の厚みにも感嘆する。それを丁寧に読み解かないと、「の社会学」の意味は理解できないだろう。
私は、共著者である中村好孝とバイク便ライダー本とワーカーホリック本について話したときに、この二つの著作の間にある「落差」を中村は指摘していた。「よりサブであるもの」ということが、どこまで自覚的であるか、私は判断を留保した。学会報告で、チーム遠藤薫が「グローバリゼーション」モデルの例解を報告したときも、私が考えていたのは、「ローカルのローカル」がどこまで意識されていたのかという一点であった。チームが考察されているのは、グローバリゼーションの「少しだけ」――身も蓋もない言い方をすれば、――グローバリゼーションの両義性だったとすれば、私の理解は少しマイ問題に引っかけすぎていたのかなぁと思う。ただ、組合をつくれるひととつくれない人の「すこしだけ」ということは、問いかけてみたいし、また読み取る努力をしてみる必要があるのだろう。そう思っている。
待ってましたとばかりに、柴門ふみが引用されていたように、待っていましたとばかりに、著者たちの理論書が公刊されたとすれば、脱帽するしかない。社会調査のご講義よろしくおねがいいたします。