長谷正人・太田省一編『テレビだョ!全員集合』

 青弓社は装丁の美しい識見ある本を作る本屋さんで、ちょっぴり人文趣味な傾向をもった社会学な人にはあこがれの出版社であろう。若い人にチャンスを与える本屋さんでもあるが、初版は印税なしで、献本する場合はびっちり自腹でガッツリ請求がくる。別名請求者と言われるゆえんである。で、族の社会学者からも「次はごめんしてけろ」と泣きが入っていて、ご丁重な気遣い申し訳ない限りと思っていた。そろそろ注文しようかと思っていたら、帰ったら家に本が届いていた。太田さんからだった。某社会学者の家で執筆疑惑から旅行に連れて行くの行かないのと小競り合いまで起こしたくだんの一件で儲けたんじゃないかと、(o¬ω¬o) アヤシイとまたもや思ったのだが、それはまあ冗談で、とにもかくにもほんとうに恐縮でありがたいことだと思う。

テレビだョ!全員集合―自作自演の1970年代

テレビだョ!全員集合―自作自演の1970年代

本の内容

 草創期独特の熱気に包まれていた60年代とMANZAIブームで幕を開ける華々しい80年代とに挟まれ、奇妙なまでに静かな印象がある70年代のテレビ文化。だがその時代のテレビをめぐる一つ一つの出来事を見ていくと、「テレビの外部」を映していたテレビがテレビ自身を自作自演するようになった歴史的プロセスが浮かび上がってくる。テレビ史の転換点としての70年代を照射するメディア論。

目次

七〇年代テレビと自作自演 長谷正人
第1部 七〇年代テレビをジャンル別に見る
開拓者の時代―七〇年代バラエティというフロンティア 太田省一
視るものとしての歌謡曲―七〇年代歌番組という空間 太田省一
ドキュメンタリー青春時代の終焉―七〇年代テレビ論 丹羽美之
日常性と非日常性の相克―七〇年代テレビドラマ論 長谷正人
コマーシャルの転回点としての七〇年代 難波功士
第2部 七〇年代テレビと社会を読む
テレビと大晦日 高野光平
「女子アナ」以前あるいは“一九八〇年代/フジテレビ的なるもの”の下部構造―露木茂氏インタビューから 瓜生吉則
テレビにとって“やらせバッシング”とは何か―「やらせ問題」のテレビ史的意義) 田所承己

 テレビを研究することは重要だと、ある研究会で小川博司さんが言った。その通りだと私は思う。私は極私的事実発見を語ることはできるが、残念ながら分析することはできない。眼の独自な置き場所を提示することもできない。この本は、カルスタみたいな華麗なる学説論議が歌舞きまくっているということはない。最後の文献目録にも、伊藤守さんの本は引用してあるが、フィスクとかはあがっていない。しかし、論理的に実に行き届いた議論ががされ、ものをみているのに圧倒される。
 副題に「自作自演の1970年代」とあり、北田暁大編のカルチュラル・ポリティックス論を思い出したりもしたのだが、長谷さんの序論を読むと、「情報」と「演出」と言うモチーフがイメージ豊かに示されている。両義的二契機のアンバランスな均衡というような論は、太田さんの 「レトリックとしての「血」――『吸血鬼ドラキュラ』をめぐって」から私が学ぶことができた最大のことで、随所で引用してきたところのものであり、近著の一つのモチーフともなっている。バフチンがどうたらこうたらというような学説史的な論議もさることながら、真っ先に思い浮かべたのは執筆者の一人田所さんの学会報告である。
 長谷さんたちが報告書を出して、一部で話題になった『未来日記』を題材とした学会報告で、「素と演技」という二契機がとりだされてドラマが分析されていた。学会報告の司会者は、「そーいや未来日記の出会い系まであったっすよね」とマヌケな質問をし、報告者たちは「あれはTBS純正ではなく、どこかの業者がやってるバッタモンだよ」とキッパリ応えたのを思い出す。ともかく、この議論と太田さんのドラキュラ論を重ねて、私は何度講義をしただろうか。また、いくつの文章を書いただろうか。
 ともあれこの前の学会で再確認した遠藤薫さんたちの議論とも重ねながら、何度も味読してみたいと思う。ありがとうございました。