本の帯

 本の装丁にこだわりのある著者はけっこう多い。まかせておけないと、知人に頼む例もあるようだ。たとえば『デジタル・メディア・トレーニング』なんかは、学生さんに頼んだらしい。それでもさらに「向上心」が吐露されていて、カバーを外した表紙について、みんな「もうちょっと・・・」と言っていたのには驚いた。院生の頃は、硫酸紙で包まれて、箱に入ったハードカバーを出したいなどと話していたこともあるが、やがてほとんどそういうのはなくなり、自分が出す頃になると、デザインも気にし出すようになった。
 当時自分が出した本屋さんで人気があったのは、寺山祐策というデザイナーで、なんともクールというか、ポストモダンなリアリティをほれぼれするような装丁に具現化していた。検索してみると、寺山氏は本なども出されている人なのである。ジュンク堂みたいなところで個展でも開いたら、けっこう多くの人が見に行くンじゃないかと思う。思いついて、「本屋大賞+装丁」で検索したら、本屋大賞にはないんだな、装丁部門。かわりに、読者大賞のブログがあって、装丁部門があった。
http://dokusyataisyo.jugem.jp/?cid=43
 自分も寺山氏に・・・と思ったが、私の場合は「地方の大学の学食の香り」(小川博司氏)がする本であったので、もうちょっと柔らかみのあるほのぼのとしたものになった。アニメでいえば、前者が攻毅機動隊で後者はアンパンマンみたいなかんじだろうか。にもかかわらず、自分も・・・とセツジツに思ったのは、それはそれで「地方の大学の学食の香り」であるのだろう。とまあ、カバーデザインにはそれなりの自意識をもっていたのだが、帯にはまったく自意識がなかった。で、貼り絵さんのブログを見て驚いた。そういうモンなのか。

やはり、自著に帯が付くのは嬉しいものだ。何といっても、出版社の「熱」を感じる。
 今までにもっとも凄いと感じたのは、『現象学的社会学は何を問うのか』(勁草書房 1998)だとおもう。
 そこには、「自己・他者・関係・制度、あるいは宗教・逸脱・犯罪などの基礎概念を、エスノメソドロジーや社会調査の問題性も含めて鋭く問い直す、最前線の現象学的社会学!」とある。
 当時も今も、これを「誇大広告」だとおもった訳ではないが、それでもやはり「最前線」には気がひける。
 いや、たんにそれだけではなく、むしろ何か「言い訳」でも語りだしたくなる。
 それに比して、今回はとても穏やかだ。
 『ソシオロジカル・スタディーズ』に掛けられる帯にある大きなコピーは「私と社会をつなぐ社会学入門」というものだし、それには「日本社会における近代から現代への変化のダイナミズムを、行為者の意味づけに焦点を当てて描きだし、現代の社会関係の形成と変容を提示する」という文章が付される予定だという。
http://harie.txt-nifty.com/annex/

実は帯の話し合いを出版社まで出向いてしたことがある。その日の前日、胆石の発作を起こし、激痛で普通の痛み止めは効かず、緊急で虎の門の病院に行き、胆嚢が腐りかかっているかもしれないので次の発作が起きないうちに手術が必要かもしれないと診断され、発作をとめるのにモルヒネを注射していた。そんなわけで意識朦朧のなかで、話し合ったこともあるが、私のほうは「誇大広告」いーんぢゃねえの路線を威風堂々歩み始めていた。『性というつくりごと』という本の帯にセクシャリティということばを入れるかどうかということで、私はやっちゃえやっちゃえみたいに発言した。「女性論と男性論」という講義を本にしたわけだけど、それを超えてという執筆者一同の考えていることの方向性は、それじゃないかみたいな感じで。で、「地方大学の学生たちを素材としたギャグのネタ帳」→「若者の文化のフィールドワーク」、「下位文化(地方文化)の社会学」→「サブカルチャー社会学」という気合い一閃を行うに至った。口の悪い友人には、「羊頭狗肉」などと論難された。
 これからは本屋さんにいったら、帯をまずはみてみようと思った。付いているものといないものも、みてみようと思った。あまり注意してみたことがなく、カバーを本にテープで留めて読んだことはあるが、帯はいつのまにか消えてしまうことが多かった。あらためて、「最前線の現象学的社会学!」という、コピーにオッタマゲーションまでつけた、本屋さんの熱のこもった気合い一閃を鑑賞し、著者たちのきめ細かい目配りに感心した。