行方昭夫『英文の読み方』

inainaba2007-08-12

 お盆なので実家に帰って、弟の一家と会食。関内駅前の天麩羅屋。某サザンのメンツゆかりのお店と聞く。節制シマクリで一ヶ月ほど来たが、まあ一日くらいと食べたのだが、胃が小さくなっていて、かなり苦しいことになった。今日も3000メートル泳いでから帰ったし、たぶん明日相当泳げば減量のペースは落ちないと思う。帰路ボーッと車窓をみていたら、阿佐ヶ谷にすごいものがあった。「立ち呑み風太くん」という店名もさることながら、「直立不動で・・・」には禿げしく笑いました。
 車中行方昭夫『英文の読み方』を読んだ。訳文をつけているだけなのだが、そこから文の息づかいのようなものまで聞こえてくるような気がしたときに、読むことの重要性に気づいた、というようなことがまえがきにあり、おお!と思って買ってしまったのだ。読めるが話せないというのは嘘、話せない人は読めないというヒリヒリするような指摘など、教養課程の読む授業を総括するような形で、読みのコツが惜しげもなく開陳されている。ちょっとレッスン的な書き方もしてあって、若い人も飽きないだろう。教養の授業というのは、無駄の典型のように言われ、教養部は多くが解体した。たしかに問題もあったと思うのだが、独特の学問もそこから生まれたと思う。英語以外にも、それを総括するような仕事もそのうち出てくるのかなぁなどと思う。

 しかし、今考えてみると、受験勉強ができなかったなぁと思う。やればできたということが言いたいのではなく、やったのにできなかったということが言いたいのである。それはなぜかというと、目的達成のための最適なゲームへと勉強を変換して、効率化することが苦手だったということだ。受験に限らず、勉強というのはそういう最適な変換を要領よくできるかどうかだということは、多くのノウハウ本が教えていることだ。ドラゴン桜で地方の公立高校の受験成績が向上したというのは、記憶に新しい。
 私たちの頃はそういうコツを教えてくれる本はなかった。親戚で大学に行ったのなんか近くにはいなかったし、一家で内職して私立に行ったくらいだから塾に行く金なんかあるはずもない。学校のできる連中は、コツなんか教えてくれるようなのはいなかった。学校の先生たちからは、いろいろ教わったと思うが、ノウハウというよりは、その先生達がどのように学んで、どのように教師をやっているかというような、一種の教養的なもののほうが印象に残っている。テクニックを教えてくれる先生はあまりいなかったし、テクニックがさほど洗練されていたわけでもない時代だった。参考書マニアみたいなことやったり、教科書に塗り絵みたいなアンダーラインを修行僧のように塗りたくったり、役にも立たないノートをつくったり、どうでもいいゲームばかりが空回りしていた。それが追い込まれて、最後の最後に奇跡的に目的にあったゲームに近いことをやって、奇跡のような合格になったと思う。
 大学に入ってからも、ノートをつくったり、語学のカードを作ったり、つまらないことばかりに夢中になっていたと思う。わら半紙に授業を全部筆記して帰ってノート整理した科目の成績が最悪だったとき、ようやく自分のバカさ加減にちょっと気づいた。で、ゼミ以外の授業は全部出ないことでさらにコツがうっすら見えてきた。wどの科目にもできる人がいて、スーパーノートみたいなのが出回っていた。それをみて、こう聴くものかみたいなことがわかってきたときは、卒業だった。後にアメリカで弁護士になった人のノートなどは、ポイントだけ書いてあり、へたくそなウルトラマンの似顔絵みたいなのが書いてあって、「ショワッチ」とか書いてあった。以前話した小谷敏さんがくれたお礼状のバルタン星人の吹き出しに書いてあった「ショワッチ」にははるかにおよばないが、なかなか笑った覚えがある。大学になると一定の表現欲求みたいなものが要求される講義が多いと思う。とりわけ文学部や社会学部的な学部で、書くことが要求され、レポート的な試験が行われるようなものがそうだ。
 別に自虐ネタを開陳しているわけではない。むしろ自慢しているのに近いかもしれない。最適なゲームに到達するのに、バカみたいに時間がかかった、というか、かけることができた時代だった。ノウハウやテクニックなどは、それなりの耕しがあってはじめて根付くものだろうし、そこから自分を甘やかしてくれるような情報を選択して、弱い自分をごまかす口実をみつけて、自分をまもろうとは思うことはない。まあ、鼻の穴をおっぴろげて、自慢するほどのことでもないだろう。それよりなぜこんな話をしたかということだが、授業のテストを採点していても、卒論を指導していてもそうなんだけど、その人のもっていた変換のコードや枠組がどのようなもので、授業や指導を触媒にして、そのコードや枠組がどう変わったかということにのみ注目しているのかもしれないということだ。