徹底穴埋め社会学

 社会学のゼミにテキストの内容を穴埋めにしたようなのをもって行くと、非常に反応はよくなる。うっぷして寝ているようなのも、むくっと起き上がるから面白い。一人が「高校時代も穴埋めの先生は評判よかった」などとおっしゃる。プリントも用意すると同時に、高橋メソッドを用いて、シュタシュタやったらさらにいいんだろうとは思う。本屋でそういうものがないか、探してみたのだが、あまりない。一つだけ「聞きまくり」というのがあったのでみてみたら、主旨がちがうものだった。
 まあ黒板を使ってやる方法は、ちょっとやってきた。そこそこプレゼンはできないことはない。「えーとこれですが、デュルケムのある概念で説明することができます」などと言って(   )を書く。しばらく考えてわからないと、「何文字?」などとちゃちゃが入る。おもむろに□□□□と板書し、「四文字」と言う。でもって、「漢字?」「一文字教えて」などということになるのだが、それじゃあ穴埋めの意味がないとむなしい気分になる。記憶の連想が、まったく学問的ではない。それは、穴埋め問題のつくりが非学問的なクイズになっているからだろうと思う。正解が「アノミー」だとわかると、「あたった!!」とか言い出す椰子がいるからね。しかし、ちゃんとした問題の作り方は非常にむずかしい。たとえば、「ヨーロッパにだけ資本主義が成立したのはどのような要因によるか?」という問いかけをして、プロリンに誘導したり、あるいは「アジアでなぜ日本だけ」というような問いかけをして、ベラーに誘導したりする設問をつくるようなことがよいのだろうが、たたみかけるのはむずかしい。
 お子様ランチのお勉強というのとはちがう問題の品格と、学習意欲を両立させるような問題はどうしたら可能なのだろうかと思ったりもする。たとえば、昔大学院を受験する学生が質問に来て、駒場の大学院入試問題を見せてもらったら、ほれぼれするようなところに下線を引いた下線部訳が出題されていた。こういうものを参考にしながら、穴埋め、短答などの問題を体系的にならべたようなテキストがあると助かるなぁと思ったりもする。ハーバードビジネススクールで開発したようなケースメソッドの変形のようなものというか。
 まあ、こんなのは前は自分で考えたものだなぁと思った。廣松渉が「予想問題を書き模範解答を書け」という試験問題を出したというのは、学生時代けっこう話題になっていた。問題がたてられることが、非常に重要なことだろうと思う。私は国語というのは、まったくできなかったのだが、ある時からそこそこできるようになった。教科書の試験範囲を問題化することを始めたからである。予想問題をたくさんつくる。けっこうこれが的中するので、みんなでやって配ったこともある。急激に点数が上がったのまで出てきた。面白くて、勉強が予想問題づくりに変換されてしまったので、全体的な成績はさっぱりだったが、結果として入試に奇跡的に合格したのはこの方式によると思う。たとえば社会(地理と政経倫社)では、予想問題を大量につくり、50字、100字、150字で答案をつくるようなことをやった。たぶん点数あげるだけだとすると、非常に効率の悪い方法だと思うんだけど、先につながる勉強だったのかもしれないと思う。
 で、ゼミでそういうことをやらせようと思ったこともあるが、自分で調べればわかるようなことを問題と称して書き付けているのがいて、やる気レスになった。どうすれば相手の心に届くかという配慮がまったくない、とキレそうになったが、私は怒ってあげるほど親切ではないので無視して、方針転換。とりあえずサービスできるだけはしようと、テキスト類をカードにとりはじめたこともあるが、意外にむずかしい。なんか、ゼミでそういう実習をしてみたら、面白いと思わないこともないのだが、たぶんそれは自分でつくるよりむずかしいこと、というか自分でつくってないとむずかしいことであるように思う。後半社会学的想像力について講義するし、来年度は社会学概論をやる可能性もあるし、そういうことを少しやってみようかと思うんだが、標準的なテキストが亡いような状況では非常にむずかしいだろう。
 大学院の入試を受ける人たちが、公務員試験のためのテキストを用いているというのは、考えさせられる。学会の各分野の人たちが、教育委員会の分科会をつくって、ミニマムの教育内容を詰めるようなことをするという試みをしてくれるとありがたいが、まあ、ひっちゃかめっちゃかだろうなぁと思わないと言えば嘘になる。つーか、文化の社会学みたいな領域は、公式なんてあり得るのかと思うよね。徹底穴埋めカルスタなんていうのは、考えただけでもカスくてぞっとする。だから、標準化できる総論的な部分や基礎構造となっている集団領域だけでも、どうにかすればいいと思うんだけどね。
 とは言え、大学院入試を受けるときに先輩達から口を酸っぱくしていわれたことは、(入試は哲学の領域で受けたので)哲学史を踏まえて論述を書けということ。出た問題は、「哲学におけるアンチノミー問題の意義について」みたいな設問だったと思うが、カントがどうたらこうたらということだけじゃなく、ヘーゲルの『精神現象学』の序文の学史整理をテンプレにして、哲学史の中に問題を位置づけて、でもって今日的意味にまで触れるような解答を心がけた。受かったんだから、それなりの点数だったはずだ。こうした初心に返ると、問題定立には「社会学史の流れ」みたいなものを問題のテンプレとしてもっているかどうかが大事なんじゃないかと思う。卒論面接で「これがなんで社会学なのか」という質問は、くり返されてきているわけだが、「見通しがきいている」ということの大事さは痛感する。そんなことを、森毅の『現代の古典解析』という本を読みながら考えた。この本を最初に読んだ時、例の極限の定義は丸暗記すればいいものでもないと考えをあらためたことは記憶に新しい。よく考えると、早川康弌という人が数学の啓蒙書に書いていたのを読んだ記憶もあるのだが。自分の学問は論理学への関心からはじまって、論理学のゼミに入った。50代にそちらに戻るのか、あるいはフィールドに没入するか、非常に迷いは大きい。
 女子大では、教員の教育技術向上のための研修が始められようとしているが、今年は教員評価の高い人の授業を聴くという企画が行われる。メンバーを見ると、非常に学問的に格調の高い人ばかりで、穴埋めをやっていそうには思えない。整然とした授業内容と、高い学問内容と、そして高度な学問のアウラみたいなものが重要なのだろうと思ったりもした。穴埋めなどと考えるのは、教員にそのどれもが欠けているのかもしれないと、反省することしきりであった。