新原道信『境界領域への旅』

 昼頃郵便受けを見たら、新原道信さんから、新著が届いていた。大月書店からだったが、プレジデント社からのものほどの驚きはない。w矢澤修次郎先生の退官企画の際多大な労をとられていたことは記憶に新しい。編じられた記念本に私も書かせていただき、いろいろご配意いただいたりした。いろいろご教示いただき、またさらに本までいただいて恐縮しています。ありがとうございました。ペラペラとめくったばかりだが、「存在の傲慢さ」という言葉がまず目にとまった。近代の主体の問題を批判的に考察することの根幹がここにあり、そのときくちから紡ぎ出された思考が、時空の問題へと広がりをみせている。前著『ホモ・モーベンス』でも用いられた方法としての旅が、新たな漂泊をみせているように思った。下手な要約をするのではなく、目次を書き写した方がよいと思った。プロローグから、参考文献まで、選び抜かれた、吟味された、工夫を凝らしたなどと言うことでは表現できない、しかしまた身体から紡ぎ出されたというばかりでもない、ことばたちがならんでいる。

内容

 20世紀そして21世紀の愚行⋰愚考がもたらす社会的苦痛のなかで「社会の医者」たる社会学者は何をなすべきか?「境界領域」をキーワードに異郷/異境/異教から現代社会を考える。

目次

プロローグ 四六億年の草の声
他者を識る“旅”の始まり
 その一 “旅”の中で想起するというスタイルで
 その二 足りない存在としてあとから歩き
 その三 “個々人の内なる社会変動”の地図をつくっていく
 その四 “異郷/異境/異教”の地に降り立つ“旅”を始める
一日目 岬から始める
 その一 「危機の時代」に岬から始める
 その二 半島で起こったこと
二日目 山野河海から考える
 その一 物質と生命の循環
 その二 山野河海の声を聴く力
 その三 循環する「異物」
三日目 無数の小さな島々から見る
 その一 サルデーニャの“端/果て”の無数の島々
 その二 テニアンと加計呂麻への道
四日目 “衝突・混交・重合する”都市と地域の“継ぎ目や裂け目を察知する
 その一 島の海岸部の「植民」都市と
 その二 陸地の内なる多海島が“衝突・混交・重合する”サルデーニャ
五日目 過去と未来の「瓦解」の間で
 ――都市はなぜ「無差別」な攻撃を受けたのか
 その一 「東京大空襲」のポリフォニーとディスフォニー
 その二 都市はなぜ無差別な「攻撃」を受けたのか
六日目 “未発の瓦解”にむけて声を発する
 その一 フィールドワークする“ソクラテス
 その二 “境界領域”を生きるひと
“境界領域”のミニマ・モラリア
 その一 コルプス/コルポリアリティ――“身実”の社会的痛苦を聴くことの社会学
 その二 メメント/モメント――おずおずと起ちあがる“境界領域”
エピローグ ぶれて、はみ出し、循環する瞬間に
 その一 実はずっと前に出会っていた
 その二 今詩の言葉がやってきた
 その三 一番でも 最も美しくもなく
 その四 国境近くの空港で
あとがき 社会学以前の不随意筋と髄液について
 その一 父の部屋 喉にささった棘 聴くことの循環
 その二 社会学から、ぶれて、はみだす
 その三 もつれてからまりあったマングローブの根のように
注(nota bene)
参考文献/本の地図

 竹内章郎さんの本を読んだときなどもそうだが、見田宗介を読んだ世代だなぁと思うことはしばしばある。この目次のことばをみて、一瞬そう思わないこともなかったが、違うのではないかと思う。字面からはわかりにくい、非常に本格派の社会科学がここにはあると思う。内外の流行の文献を蒐集して、用語と軽快に戯れ、試し切りのような調査をするような軽薄さを拒否し、本格的であること、実証的であることを臆することなく探求した結果が、この目次ではないかと思う。
 「境界領域」「岬」という表題の言葉を見て、矢澤本企画の席上で「昨日クロアチアから帰ってきたところです」とおっしゃっていたのを思い出した。矢澤先生にさしあげた記念品も、「そのあたり」で買った銅版画のようなものだったと記憶している。それはともかく、バルカンという言葉が想起された。目次を見ると、もう一つアラビアということばが発見される。油井大三郎先生が、最初のアメリカ史の研究成果を世に問われる前に講義で「世界史をバルカンから描く」ということをめぐって、調査旅行のことを話されていた。その言葉を手がかりに、良知力の『向こう岸からの世界史』、上原専ろくの『歴史的省察の新対象』をはじめとする世界史論などを読んだ。私の場合、そういう若い日の情熱は、ミルズ論のなかに痕跡をとどめる程度になってしまったが、新原さんはこういう問題と正面から対峙し、こういう伝統を継承しながら、自分の学問を形成していったんだなぁということを、改めて感じた。
 このようなターミノロジーを用いながら、新原さんは学会でも活躍されている正しい社会学者であることにも注意すべきだろう。この本を読んで、リリックな字面だけを真似したようなレポートを書いたとしたら、新原さんはあまりよい点をつけないのではないだろうか。それでは、思想用語で快刀乱麻しながら、「学問被害」「調査被害」をまき散らしているようなことと、大差はない。そういうことではなく、境界に身を置きながら、“未発の瓦解”についてしっかりとした言葉でものを考えることをこの本は提起しているように思う。すぐれた、しかし厳しい、社会学的想像力の成果が生まれた。