徳川直人『G・H・ミードの社会理論―再帰的な市民実践に向けて』

 大学に来てみたら徳川直人さんから本が届いていました。ご配意いただき恐縮しています。お礼申し上げます。一時日本社会学会には、ミードの部会がかならずと言っていいほどあって、そこで徳川さんや、伊藤勇さん、小川英司さんたちの話を聞くのが楽しみだった。船津衛先生のお仕事が発端となり、さまざまな疑義が提出され、シカゴ、イリノイアイオワ、カリフォルニア、テキサスなど、さまざまな「学派」の対立が整理されたあと、登場したのは徳川さんたちの『現在の哲学』を中心とした読解である。鍵語としては、時間、科学、倫理といったものが提示され、ホワイトヘッドベルグソンなどの著作も丁寧に検討され、さらに相対性理論にまで立ち入った丁寧な解釈を施したレジュメを巡り議論をし、メモをしたレジュメを手にして家へと帰る一時、学問をすることの幸福を感じたものだ。
 徳川さんの読みはエレガントで、概念などのとらえ方に独特のふっくらしたやわらかみがあって、難解な議論を解きほぐし、かつ含蓄があって、篤実な研究のなかにキラリと光るものを感じた。東北大学といえば、学説研究とともに、農村研究がクルマの両輪となっていて、たくさんの成果を上げていることは言うまでもないが、徳川さんはそこでミルズの動機の語彙論を用いて、実証研究を立ち上げ、成果を論考にまとめられている。そこに、ミード研究にもみられた独特のセンスを感じていた。今回の著作は、満を持して発表された徳川さん最初の単著である。高城和義氏らが原稿を内在的に検討し、コメントを踏まえ、草稿ができてからさらに三年ねかして出版されたものである。

G.H.ミードの社会理論―再帰的な市民実践に向けて

G.H.ミードの社会理論―再帰的な市民実践に向けて

種々の単純な話が流布する昨今、「声と耳」を豊かに保ち社会認識につきそう社会学を再構想することはできないか。古典と現在との間で「私」にできることは何か。本書は、ミード研究に内在してきた著者が、原典と史料をいっそう丹念に読むと同時に、シンボリック相互行為論と読書会の論理との接合をはかった研究書である。

 奇をてらうことなく、本格的な枠組みでミードの社会理論を描き出す。一つには、アメリカの社会学史、社会思想史の流れ、もう一つには、アメリカ社会の流れをじっくりと検討している。性急に何らかの理論傾向に結びつけたり、一点豪華主義でどうだと胸をはったり、やたらに喧嘩をうったりということではなく、積み重ねてきた東北大学独特の深い原典読みの上に、京都の加藤一己氏たちが中心になった一次資料の整理を重ね、さらにそこに独自の資料批判をさりげなくくわえ、本は書かれている。私にとって興味深かったのは、日本におけるミード研究の流れが、船津、江原由美子、安川一とレビューされていることである。アメリカの○○学派などという整理は、カタログとしては意味があっても、あまりなにが言いたいかわからないことも多い。この作品は、これに対して日本での研究をきちんと踏まえて、そこから「再帰的な市民実践」という鍵概念に結びつけている。そして最後は、フィールドワークの問題にまで論を進めている。徳川さんから、質的調査法の本をいただいたことも思い出した。
 個人と社会などというと、学部の一年生でも侮蔑的な表情を浮かべるのが、昨今の社会学の現状ではないかと思う。しかし、一見無様ともとれるようなてきとーに矛盾もあって、でもってアバウトな理論構成のアメリ社会学というものを、私は一つの可能性をもったものとしてみている。別に首尾一貫していなくてもいい。社会と個人という残りかすみたいなフレームワークは、英米系の経験論の一つの可能性ではないかと思う。もちろん統治論系の議論の切れ味を知ってしまうともうばかばかしくってやってられないという指摘もわかることはわかるけど、こっちは英米系でやってきたわけだし、でもその良さを表現するのはかなり難しくて、ボコボコに言われるに任せるしかなかったわけだけど、こんどの著作を拝見して、フィールドワークまでも含めた一つの可能性のヒントをかいま見たような気がした。おりしも、社会学的想像力論の本を書いている。直接は生かせないまでも、いただいた勇気を生かしたいと思う。