松浦雄介『記憶の不確定性』

書評:松浦雄介『記憶の不確定性』(東信堂

@西日本社会学会誌

1 はじめに

 社会学的記憶論の新著である。言うまでもなく、記憶は、自己論・歴史社会学・文化社会学などの領域では、最重要な論点のひとつである。帯に「精神分析から哲学・文芸批評まで」とある。領域外の人のなかには、「あの類のものね」と読まずにすます人もいるかもしれない。しかし、本書の社会学的貢献は、方法論をはじめとして、領域を超えた重要性をもつのではないかと思う。

2 「記憶の社会学」構想の背景

 富永茂樹氏や太田省一氏らによって展開されてきた19世紀的な文化表象のテクスト/コンテクストを踏まえ、本書を読んだ。19世紀はいわゆる「市民社会的なもの」、その啓蒙主義に対する批判と克服が模索された時代である。時間の変化を単純化して概括すれば、「健康から病へ」「市民社会から大衆社会へ」「公衆から群衆へ」「健康から退廃へ」「中心から周縁へ」というような図式で捉えられる。そして、公衆や、健康や、正常、衛生、中心といった、括弧つきの「正常なもの」との対比で、群衆や、病いや、狂気や、退廃や、周縁、性的なものといった、精神や社会の病理、「病い」が発見、ないし対象化されていった。こうした両義的なものの不安定であやうい均衡(=ゆらぎ、同一性の「危機」)が、19世紀的文化表象に特徴的なことである。
 本書は、こうした変化を、「忘却と記憶」=「工業化に伴う生の断片化とその回復」、「過去のドラスティックな健忘と過去へのロマン主義的な憧れ」の問題としてとらえ、記憶研究登場の背景としている。たしかに、「同一性の喪失」という危機的状況において、喪失した過去を忘れ去るにせよ、記憶の糸を辿るにせよ、記憶は問題の焦点となる。
 さらに工業化以降の社会変動を踏まえた今日的な記憶の社会学の成立が論じられる。特徴的な変化として、「人・もの・金・情報のグローバルな移動と混交」、「情報ネットワークによる社会関係の再編」、「差異や多様性を肯定するポスト・モダニズム」の三つが指摘されている。そして、三つの変化のなかで生じている「脱中心」「断片化」「多元化」「フレックス化」といった生の徴候をめぐり、記憶の社会学が成立するとされる。ここで生の徴候、「ゆらぎ」を括る論理に注目したい。

3 記憶の不確定性論の社会学的貢献

3−1 「ゆらぎ」の因果性論的定義

 両義的諸概念の不安定な均衡、同一性の「ゆらぎ」を、本書は、「記憶の不確定性」概念によってとらえようとする。それは、「複数の因果系列の複合的な作用をつうじて生成するゆらぎ」(p.16、p.226)として定義される。因果関係論が、定義の論理的な要である。本書は、単線的・一方向的な原因−結果関係を問題にし、原因論、本質論的な立論を批判する。そして、因果系列の反転と複合的な併存を見据える視点を提示する。両義的な諸概念の単線的な関係は相対化され、複合的な連関のなかで相互に絡みあったものとして把握されることになる。このベースにあるのはアルチュセールの構造的因果性概念である。

3−2 文学作品の代表性−−内部と全体

 文学作品を用いた議論の代表性の問題と絡め、構造的因果性概念が議論されていることにも注目したい。本質的全体の優位が無意味なものであるとするならば、代表性の議論自体が意味を持たなくなる。「特異性や個別性の解明をつうじて、全体の新たなる側面を引きだしてゆくこと」(p.54)も可能になると本書は言う。そして、「部分としての樹の細部をみることによって、森全体の構造を考えること」という後藤明生のことばや、「ひとつの出来事、ひとつの場所、ひとりの人物について徹底してあらゆる方向から眺めてみることで、案外、魔法の紐のような“時間”を少しでもその多様性を損なうことなく、作品のなかにとらえることができるのではないか」(p.55)という津島佑子のことばを引いている。著者の専門領域のひとつにライフヒストリー研究があるようだ。上記の議論は、調査の方法論提示とも解釈できるだろう。

3−3 「構築主義」批判と記憶の潜勢力

 こうした立論からは、構築主義を標榜する従来の記憶論=記憶の外部性論も批判されることになる。すなわち、コンテクストとテクスト、外部と内部、空間と時間等々も、複合的な因果連鎖のなかでとらえられるわけで、「構築すること」と「構築されること」の単線的一方向的関係も批判されなくてはならない。ここで「記憶の潜勢力」(p.vi、p.32)という概念を提出される。「過去は現在によって構築される対象であるだけではなく、現在にさまざまな作用をおよぼす潜在的な力である」(p.32)。過去の現在への作用を、本書は「現実化」という用語であらわしている。記憶の作用を問う知見として、フロイトベルグソンの記憶論を評価する。
 著者の「構築主義」批判は、有力なパラダイムを批判するための「一山狙った」ようなものではなく、記憶の社会学を展開するために必要な論理的な吟味である。しかし、結果として、因果性の問題との関わりで、構成主義的な諸理論を検討・整理するという重要な課題を提示するかたちになっている。また不確定性の概念が、ルーマンの偶有性、ギディンズの再帰性の概念と比較されていることにも注意しておきたい。西日本社会学会には、馬場靖雄氏、花野裕康氏、矢原隆行氏、園田浩之氏らによる関連研究の蓄積がある。著者も交えた議論の深まりに期待したいと思う。

3−4 記憶の力動と現代社会の記憶の徴候

 本書は、フロイトベルグソンの生と記憶の力動論を単線的動因論、本質論から救出することに成功しているように思われる。「記憶とは、内面における想起をつうじて時間の連続性や事物の同一性をつくりだすものであるよりも、現在からの過去の構成、あるいは過去の現在への現実化をつうじて行為を生起させるものである・・・われわれの自由と不自由をめぐる経験の多くが、ここにかかわっている」(p.86)。
 3章以下では、後藤明生古井由吉村上春樹津島佑子のテキストが読みほどかれ、社会の記憶の徴候の複合的な因果連関が明らかにされてゆく。潜在する多様体としての記憶の力動の絡み合いのなかに、生の自由/不自由をめぐる現代的徴候が浮かび上がる。記憶の「真実」は、自己ノムコウ/自己ノウチ・オクに明滅する。しかしそれも「万華鏡の模様」(p.219)のように、角度を変えれば、まったく別のものに変わってしまう。記憶の社会学は、模様のからくりを考察するものであるという。マニフェストのゆくえはどのようなものになるのであろうか?
 末筆ながら機会を与えて下さった編集委員会に感謝し、また書評者としての力量不足を著者にお詫びしたい。