三浦展『「自由な時代」の「不安な自分」』

 なかなか作業がすすまない。アタマの調子は良いのであるよ。なぜわかるかというと、休憩に将棋ソフトと対戦すればわかる。冷静だし、見通しもきいている。歴史学者によってミルズの生きた時代や、公民権運動、ベトナム反戦運動の時代までを見直す研究は数多い。ミルズの存在感はそうした本をながめるとわかる(英語だからちゃんと読んだとは言えないけど、斜めに読むくらいのことはしているのです)。ネオコンネオリベな現況について、省察を加える動きとそれは連動しているし、9.11以降のアメリカの権力というものを見直そうというモチベーションもよくわかる。ホックシールドが『ホワイトカラー』を再評価して、スコット=ライマン、ブラム=メヒューの研究を一歩も、二歩も進めた。その辺のことをまとめたものとしては、『自己と他者の社会学』掲載の井上俊氏の論考がウェーバーからデュルケーム、ゴフマンまでを視野に入れて整理しており出色である。となると、次はいよいよミルズの代表作である『パワーエリート』であることは間違いのないところだろうし、そこに照準することはすでにとりきめてある。問題は、そのような脈絡を、どう具体的に書き、そして一年生の学生にもガツンとくるように表現するかということだ。運悪く、概論をもっている。よって、手応えがモロわかる。それで筆も萎えるのであった。
 などと言いつつ、大学に来たら、三浦展氏から『「自由な時代」の「不安な自分」』が届いていた。ありがとうございます。帯に「ベストセラー『下流社会』の著者が、」とでかでかとある。このような波にのって、どのような表現が行われてゆくのかは、一読者として興味津々である。今回も「消費」という論の筋道はくっきりしている。

三浦展『「自由な時代」の「不安な自分」──消費社会の脱神話化』

内容

1920年アメリカから始まった大量生産・大量消費は、人々の欲望を喚起した。だがやがてその欲望は我々の生活を隅々まで支配し、統御困難な状況に陥れた。挙げ句、行き着いた果てが、人々の「自己分裂」ではないだろうか? ベストセラー「下流社会」の著者が、流行・風俗の変化から、社会構造を考察。[特別対談]北山晴一、松田美佐、成実弘至森川嘉一郎

目次

1.消費とアイデンティティ−−さまよう「自分らしさ」
2.携帯とコミュニケーション−−階層化と世界の縮小
3.消費と都市空間−−八〇年代渋谷論への疑問
4.消費社会の音楽−−ユーミンアメリ
5.政治と消費−−ニューヨーク万博のイデオロギー
6.冷戦と博覧会−−イームズがデザインしたアメリ
[特別付録]天皇制の心理的地盤
http://www.shobunsha.co.jp/html/sinbase/index.html#01
はまぞうにのっていないので書影他利用させていただいた。追って修正したい。

 10年以上前のことだろうか、著者が30代のころやっていた「非常に部数は少ないが、非常に影響力のある」と言われた個人誌に掲載していた論考などを下敷きにして、論は展開されている。不安と自由の問題など、概論で使っている浅野本や、藤村正之氏を中心とした青少年研究会などの議論と重なる部分もあるので、参考文献にもなるなぁなどと思った。80年代的な「フリッパー的気分」を醸成する土壌をつくりつつ、そこに秘めていた消費の倫理への志向をここのところ押し出しつつあるわけで、注目を続けたい。たぶん一番注目されるのは、3章の渋谷論だろう。なんつったって『アクロス』な人なわけだから。しかし、私はむしろ、それが政治や戦争や天皇制の問題にまで論じすすめられようとしていることに注目したい。
 大学三年の時に書かれた天皇制論が付録になっているのは、非常に懐かしいものがあった。新興宗教についての一次資料を大量に集め始めた四年次の論考ではなく、いろいろな可能性を秘めていた論考を選んだことは、一つのオトシマエの付け方としてよく理解できる。もちろん論考は、そうした個人的なことのために収録されたものではないのだと思う。一貫性を読むことが、『下流社会』を読むこと、三浦展を読むことの鍵になるッテことだろうと思う。有名人を知ってルンだぜみたいな気持は私のどこかにあると思うのだが、それにもまして、三年間くらいに渡って毎週のようにいろいろな話をすることができたことの方を自慢したい。実は趣味も思想もなにもかも正反対と言ってもよいのだ。不思議に言い争ったことはない。一度だけ、田中克彦の日本語論をめぐって激論したかな。もちろんてんぱった意見は私の方。先日これまた意見がまったく違う朝日新聞の古山順一氏等といっしょにのんだとき、「知識でものを考える奴、書く奴はダメだ」みたいな話になり、そこだけは一致した。その辺が一応の一致点なのだろうと思う。もちろん人間知識に流されがちなのだが。