藤本一司『愉しく生きる技法』

 家に帰ったら藤本一司さんから『愉しく生きる技法』が届いていた。最初の本が出るということは年賀状で知っていたのだが、手にして本当にうれしかった。おめでとう!と言いたい。また献本いただいたことを感謝したい。まずは、目次などをあげておく。

藤本一司著『愉しく生きる技法−−未知性・他者・贈与』(北樹出版

愉しく生きる技法―未知性・他者・贈与
まえがき
第一章 夢と現実のあいだで
 「夢」も「現実」も手放さない
 「外見」は、侮れない−−「外見」と「心のなか」
 「型」を使いこなす−−「ほんとうの自分」とは?
 未来も過去も「いま・ここ」に
 加害者?被害者?
第二章 「私の位置」を知る
 私は「いつもすでに」決断している
 「無知の知」を知る
 考えることを考える
 「私の当然さ」は、どのように誕生してきたか
 限界を知り、未来を拓く
第三章 未知性・他者・贈与
 未知性を愉しむ
 私の「外部」に耳をすます
 私の「身体」に敬意を払う
 幸福のはじまりとは?
 「物語」が「現実」をつくる−−物語に編み込まれた「私」
 交換の愉しさ
 「あげる」「もらう」
 「つながり」を生きる

 藤本さんと知り合ったのは、20年ほど前のことだ。今はスイスの銀行で国際的な金融マンとして活躍中の後輩M氏が、教員をやめてドイツ放浪中の藤本さんと知り合った。学問や進学の話などをしたらしく、M氏は相談相手になってみてほしいと私に手紙をよこした。下町育ちということもあり昔からお節介焼きでそういう話はきっと食いつくだろうというのが、M氏の判断だったと思う。さっそく手紙を書き、哲学の話などをした。語学を中心に受験のアドバイスなどをするだけのはずが、私も彼もけっこう精神的に危機的な状況にあったこともあり、長文の手紙を何度もやりとりした。私は親切でアドバイスをしていたと言うよりは、自分の悩みをぶつけていただけのようなところもあり、自分なりの感謝をこめてのことだが、最初に出した本の末尾に書簡のひとつを公開するというようなことまでしてしまった。そんなやりとりを思い出しながら、表題を見て、当時のぼくらの悩みはそういうことだったんだろうなぁと、再確認した。直接確認したわけではないが、ここにも『生の技法』萌え系がいたかなどと思い、幸福な愉しい気持ちになった。
 藤本さんは生きることの当為、義務といったところから出発され、大学院ではカントの実践理性批判を中心にカント哲学について研究された。専門的な論文もそういったところを中心に書かれていることが、奥付けからわかる。しかし、彼が大学院で考えたかったこと、学問的に考えたかったことは、そういう原典読みではなかったんじゃないかと思う。これは多くの哲学科志望の人が、専門研究を志すときにぶつかる問題であろう。それぞれの章の鍵語は、「あいだ」「限界」「審級」であろう。20年以上同じ問題を考え抜いてきたんだなぁと思った。藤本さんは、妥協なく問題とぶつかり合い、そして本書を書いたということが、目次を聞いただけでもよくわかる。藤本さんの職場は釧路高専で、そこで学生たちと話しながら、ゆっくり本書を紡いできたことは明らかだ。自分のことばで考えた内容を、自分のことばで書いている。授業や相談の場で学生たちに語りかけるように書かれたこの本は、「心理学化する社会」の諸問題に悩む人々にいろいろなヒントを与えてくれるのではないかと思われる。
 藤本さんはロックバンドをしていたこともあるようだが、プログレっぽいものではなく、南部の泥臭いロックが好きだと言っていた。思想ヲタっぽいものの書き方に抵抗を感じるような人や、素朴に「愉しく生きる」ことを考えている人には訴えかけるものがあるのではないか。岡山の哲学科の学生たちの顔が何人か思い浮かんだ。