「間の社会心理史」講義へのコメント

 講義の感想を書かせても通り一般のことしか書いてないし、講義への批判を答案に書けと言っても無難なことばかりで、クラクラ来るようなスパイシーなものにであうことはあまりない。「みんなのキャンパス」などをみても、「生理的に受けつけない人もいる」だとか、「出なくてもいい」とかそんな語彙がならんでいるだけでがっかりすることも多い。そんななかでそれなりのコメントを「みんなのキャンパス」で発見した。本年度の社会学思想=歴史社会学についてのコメントである。講義は、「間の社会心理史」について語ることで、関係論的な視点を提示し、そのことで旧課程の社会学思想の講義に読みかえも可能という主旨のものである。四年生の書き込みとおぼしきもので、書かれている内容にはまったく納得できないのであるが、講義内容への一つの理解、批判がここにはあって、それなりに尊重すべきだと思うし、もし答案にもっと敷衍して書いてあったら、こちらのメンツにかけても80点以上つけたかもしれないとは思っている。

 授業の内容はシラバスに書かれているほど高尚な内容ではなく、先生の幼少の頃のお話やテレビ番組の感想で構成されています。


踊りや歌舞伎やお茶や礼法に縁なく研究生活を送ってこられた伊奈先生が、日本文化の間について論じようとしていらっしゃるわけですが、お話の内容はそれらの概論にも程遠く、何を私たち学生に伝えたいのか全く分かりません。日本文化を学ぼうとされている人は、それらの専門家でかつ講義を受け持っておられる先生の授業をとったほうが授業料の無駄にならないと思います。


先生が目指されているのは、若者たちがキラリと光る瞬間を社会に生かすことらしく、その目標は素晴らしいと思いますが、そこにいたるまでに「間の研究」がどう関連するのかをお話してくれないので授業に出ている意味が見出せません。


先生の風貌は秋葉原に出現しそうな感じで、女子大にいる先生たちとはかなり浮いています。先生みたいな人でも、受け入れてくれる社会があるということに安らぎを感じたい人は一度講義を聞いてみたら良いと思います。社会には色々な人がいるんだなと感じるはずです。

 まず誤解がないように言っておけば、「踊りや歌舞伎やお茶や礼法に縁なく研究生活を送って」ということは、私が講義のなかで何度も繰り返したことである。「自分は古文や漢文が苦手で、まったくできないに等しい。よってこのようなことについて語ることはおこがましいことである」ということは能や、歌舞伎や、礼法や、踊りなどを語るたびに注釈してきた。まあ、私なりに謙遜した部分もあるけど(爆笑)、たとえば歌舞伎のことを知りたいのであれば、女子大には渡辺保先生が芸術論の講義をしに来られているわけであり、そちらのほうが「授業料の無駄にならない」ということは言うまでもないし、比べるのすらおこがましいということは、わざわざ断らなくても誰でもわかることであろう。踊りなら佐々木涼子先生が講義されている。歴史学や文学他でそのような講義はたくさんある。「間」という観点から深く学ぼうと思って受講されたとすれば申し訳ないかぎりである。
 しかし、こちらにも言い分はある。私の講義は「さるばかけもの」に喩えられる「若者のキラリ」を照らし出すためにしているのだということは、最初にも断ったし、つねにそれを確認しながら講義をすすめてきた。礼法、武道、能、歌舞伎、落語、踊り、音楽などいろいろ論じたけれども、論じた内容はその日本文化論の概説ではない。「間の美学」の原義を確かめるとともに、歴史とともにそれがどのように変化・分節していったかを考察した。とりわけ外国文化との接触、外国文化の日本文化のなかへの定着、文化の大衆化、さらには外国文化への日本文化の影響などを経て、どのように分節していったかを考えた。そして、それに基づいて、伝統的な日本文化のなかに現代のサブカルチャーや若者文化に通底する要素を読み込んでいこうとしたわけである。時間の切断、伸び縮み、余韻、余情、空白の表現、引き算芸術、不足主義などを、いろいろな伝統文化のなかから図式的に取り出し、それを現代文化と比較しようとした。極言すれば、私は日本文化について語ったのではなく、若者文化について歴史的に語ったにすぎないとも言える。
 だから、つねにテレビ番組、ポピュラー音楽、あるいは若者の文化、私の幼少期の体験などを重ねながら話した。シラバスを高尚なことを話すように書いたつもりはなかったが、読んでみるとそう言われればそんな気もする。そうしてみると、「程遠い」「概論にも程遠く」と言われることはわからないことはない。例をあげよう。たとえば時間が切断されて、そこに森羅万象を写すような間が生まれるというようなことを、中井正一のテキストをつかって説明した。そのすぐあとで、シシオドシの話をし、それを小学生低学年のころくちびる横を指ではじいて「ポン」としたらぶん殴られたとか、同じく小学生低学年のころ近所の劇場のストリッパーのお姉さんにお風呂屋さんで習った踊りを学校でやっていて先生に「あんなところに行くのはろくな人じゃない」と言われ、「よく知ってンじゃん」とかゆってひっぱたかれた話などをして、どっちも変わらない部分はないかなどと問題提起しながら話したわけだけど、授業の論旨がわからないと単なる野卑な雑談としかとれないだろう。最近はこのような雑談のつもりではない例解が、ベタにつまらない雑談などと批判されることが増えている。先生はきっちり時間いっぱいシラバス通りに講義するべきだ。そうでないものは許さない。そういう正義漢があるとすれば、私はそこに譲ってはならない思想的な敵手をみるしかないのである。歌舞伎や落語は別に高尚なものでもなかっただろう。能、お茶、踊り等々しかり。高尚というようなディバイドをつくる営為を批判し続けるのが私の考えたいことだと再確認した。自分は保守主義的なところがあるかと思っていたんだけど、そうとも言い切れない(とても言えたもんじゃないw)とも思った。
 だから「先生みたいな人でも、受け入れてくれる社会」というものを私は考えているわけだし、そういうものを考えたいからサブカルチャーなどというものを研究しているわけである。よって上の論難は、明らかに思想的な違い、というか立場、価値観の違いに基づくものであるが、それなりの理解があると判断できるようにも思う。たぶんこの人の「そこにいたるまでに『間の研究』がどう関連するのかをお話してくれないので授業に出ている意味が見出せません」ということについては、まったくわかってもらえない気がしないことはない。つまり、「キラリ」が「高尚」でないとすれば、いくらくり返しても無駄な気がしないことはないのである。しかし、やはりそれは授業の未熟と受けとめるべきかもしれない。未整理のことを講義をしながら考えていることだけはたしかだからだ。
 正直最初は面食らったが、こう書いてみると、自分のなかにこの感想文は不愉快なく収まった。このコメントはいろいろ考えるきっかけになった。最後の一節はアイロニーなのか、ベタなのか、アイロニーゆえにベタなのか・・・等々。答案にもう少し敷衍して書いていただけたら、いい点をさしあげたいが、たぶん授業料の無駄とかゆっているので、受講を停止されたかもしれない。あるいは、アキバなどにいい点をつけて欲しくないかもしれない。w なにか、ストンと落ちる決着を得たくて受講している人には、私の講義はとてつもなく不愉快かもしれない。「奥歯に挟まったもの」の余韻をいろいろ楽しむというようなことを、教師も受講者もすべきであると思う。それが間の精神ではないだろうか。もちろんクリアカットできない私の頭の悪さや、古文もろくに音読できない国語力の不足をいいわけするつもりはさらさらないのであるけれども。