入江昭『歴史を学ぶということ』

 昨日は遅くまで、というか今朝早くまで、朝生みながらはてなで『限界の思考』をめぐるいろいろなエントリーをみていたのだけれども、この本には「話題沸騰の発言」があるということをるーまにあ系のエントリーから知った。どれがそうなのかは、そのうちわかるだろうからまぁいいや。あとフォーボタンだけど、20回押すと一応「満フォー」になるのでつね。どーでもいいけどさ。遅々として仕事が進まないので、本屋をまたひやかす。前田健の恋愛チェキみたいな本が出ている。なかみはどーでもいいが、表紙のインパクトにぶっ飛んだ。カムアウト云々が話題になってるけど、竹山のことは前からテレビとかでゆってるじゃんとか思った。
 かつては精神リフレッシュの特効薬みたいな存在だった新書コーナーも、最近は−−関東社会学会の会報見ていて「そうか」と思ったんだけど−−イシューオリエンティドから、ビジネスオリエンティドな実用本とか、ザックリ切り口ひとつ、芸人で言えば一発芸売れたら儲けものみたいな企画のものが多く、あまりワクワクしなくなっちゃっていたんだけど、というかワクワクする本はタゴサク本のなかに埋もれて極めて見えにくくなっているだけかもしれないけど、入江昭の『歴史を学ぶということ』という本は、わりにワクワクした。勤務先にある丸山真男文庫関連の連続講演会に、鶴見俊輔、武田清子といった人に続き講師としてみえられた。350人定員だったのが、500人以上の聴衆が集まったのであった。

歴史を学ぶということ

歴史を学ぶということ

 日本の大学にいかずにアメリカのリベラルアーツカレッジで学び、アイビーリーグの大学院に進み、アメリカの大学で教鞭をとり・・・といった経歴の著者が、自らの学問と人生を語る。あれこれの思想や事件を瞥見しながらも、歴史を見る視点、その方法論などについて、親切に、しかし妥協することなく語っている。そして、独自の社会学を創ろうとしていた古賀英三郎氏が講義で「歴史学社会学」という主題を裏モチーフとして一年間講義でくり返し語られたことを思い出した。それを下敷きに、西洋史東洋史、世界史、日本史などの講義を数多く受講し、「独自の社会学」などという意気込みすぎな意欲に萌えていたんだよなぁと、酒飲みの与太話みたいな感傷に浸った。そして、ミルズの個人史とアメリカの歴史を重ね合わせ、社会学的想像力の概念を再検討する修士論文を構想したことの意味を、再確認した。入江氏は、大学時代の夏休みにリースマンの『孤独な群衆』を読んで触発されること大だったと言っている。そこに照らしながら、もう一度本をめくりなおし、非常に刺激的な思考を楽しむことができた。
 この本は、歴史学の入門書にもなっていて、最後にいろいろな本が紹介されている。このようなカタログを読むのは非常に楽しい。一つだけ不満なのは、新書ではあるものの、臆せず英語の本も何冊かあげてもらいたかったということである。読めるわけないのかも知れないけど、洋書店も知らないような学生が、本屋を探し、図書館を探し、なくて要所の買い方を調べ、注文して手に入れて・・・ということをするだけでも、ずいぶん勉強になると思うのである。