沢山美果子『性と生殖の近世』

 本日は前期卒業式だった。前期卒業する学生はゼミにはいなかったことや、あと大学院入試、父母会などの公務が山積していることなどですっかり失念していた。申し訳ないことをした。そんなわけで、本日は昼前に大学に出勤した。郵便受けをみると沢山美果子氏から『性と生殖の近世』が届いていた。まず、書物の情報と、帯にある文言などを引用しておく。

性と生殖の近世

性と生殖の近世

帯より

 性関係、避妊、受胎から出産、産後までのプロセスを女性たちの生きた現場から捉えなおす。生命の安全と存続を求める人々の努力の諸相。


 「本書はジェンダーとセックスの接点に位置する身体という場で起きる、性と生殖という営みに焦点をあて、性と生殖をめぐる人々の歴史的経験と、その身体観を明らかにすることを意図している。ではなぜ、歴史のなかの性と生殖に焦点をあてるか。それは性と生殖に焦点をあてることによって、女性たちの即し、女性たちの側から、また近世から近代への展開のなかで、近代とは何であったのかを、問い直すためである」。(序文より)

目次

序 章 歴史のなかの性と生殖
第一章 懐胎・出産取り締まりからみた<産む>身体
第二章 堕胎・間引きをめぐる権力関係
第三章 性と生殖の民俗
第四章 捨て子の実像
第五章 捨て子の運命
第六章 性と生殖の規範化
第七章 女医の診察記録にみる女の身体
終 章 性と生殖の近代へ

 本書は、女性史研究青山なを賞を受賞された『出産と身体の近世』に続く、沢山氏の2冊目の単著である。一関、岡山、美作などの史料読解と整理に基づき、女性の身体という観点から<近世>を見据える研究であることは、帯の文章からもあきらかであろう。この場合の<近世>とは、「女性の身体や出産が、人口増加政策の観点から公権力による介入の対象となる」時代である。沢山氏は近代の研究者としてのアイデンティティを堅持しつつ、近世の研究に取り組まれ、お茶の水女子大から学位を得、そして著作を公刊された。しかし、終章の表題や、端書きにある次のようなことばを見のがしてはならないだろう。

「はしがき」より

 「近代の女性たちの性や身体からの疎外の意味、そして女性の身体が生殖技術の対象となっている現代社会の問題を歴史の主題として問うという、近代の相対化の視点は、本書にもつらぬかれている。またその視点は、現代社会の変容を見定めながら、心と身体を持ったまるごとの人間として、どのように生きることが豊かな生き方なのかという問いにつながる。この閉塞感にみちた社会にあって、そのことを諦めることなくいかに考え続けるか、そのための一つのこころみとして、本書を受けとめてもらえたら幸せである」。

 沢山氏とは、岡山大学時代に「女性論と男性論」という総合講義を御一緒させていただいた。お互いの聴講は自由という講義に講師陣も多数出席し、切磋琢磨したことは宝物のような思い出である。そしてまた、この講義は受講者200名あまりで、出席者400名以上という講義であったことも、自分の人生で希有な思い出となっている。丁寧に史料をプリントにまとめられ、実証的に考えることの大切さを身をもって示しながら、他方でそこから深い洞察や明解な問題意識を浮かび上がらせる講義には圧倒された。たまに体験的な問題意識を語るような講義があると、沢山氏は「あのような講義だけはしてはいけないと思っている」というようなことをつぶやかれ、肝を冷やしたことも鮮明に記憶している。最後に沢山氏たちが講義の成果(私はこの講義にはまったくかかわっていない)をまとめられた本、沢山氏の最初の著作を掲げておく。

「性を考える」―わたしたちの講義 (SEKAISHISO SEMINAR)

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男と女の過去と未来 (SEKAISHISO SEMINAR)

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出産と身体の近世

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