三浦展『下流社会』:若干の補足

 三浦展氏より、興味深い補足コメントをいただいたので、コメント欄にアップしますた。関心のある方は、一昨日のエントリを是非ともご覧下さい。「と言いながら、他方で」という表現が、皮相な常識論に基づく矛盾の指摘のように誤解される可能性がたしかにあったと思いますので、本文も直しました。あと、毒電波になられることを期待するわけでもないので、そこも補足した次第です。別に迎合的に礼賛しているわけでもなく、当然異論もなかにはあります。たとえば、私は社会学者なのでなかなか賛成できない議論もあるわけですが、そこは小谷野敦氏や、さらには三浦氏が味読してきたであろう、さまざまなモラリスト的論考との関わりがポイントであると思うし、上記の重要な論点を際だたせることがまず重要と判断するしだいであります。

下流社会 新たな階層集団の出現 (光文社新書)

下流社会 新たな階層集団の出現 (光文社新書)

 ニートの問題を議論する場合、とかく労働倫理にばかり目がいきますし、私自身もこのブログにアップした価値意識をめぐる論考のなかで『ア・ルースボーイ』などを引用しつつ、「職人性」などについて言及したわけです。そうした議論に対し、「消費すること」の倫理を提示してみせたことは、非常に面白い議論であることはあきらかでありましょう。枝葉末節のあげあしとりをするのではなく、ここできちんとした議論がなされることが期待されます。そして、「ロハス的な生き方」というキャッチ感のある鍵語が提示されているのは、三浦氏ならではの論だなあと思った次第です。
 見田宗介氏の場合は、バタイユなどを引きながら、「至高性」という理念を導出し、また新井満氏が提起する「引き算芸術」論なども参照しながら、「清貧のなかのゆたかさ」をクローズアップしてゆくという方法をとられています。これは、南博氏の言い方で言えば「不足主義」、私なりの言い方で翻訳すれば「間」や「余白」のスタイルなどと表現されると思います。そして私は、反体制的であれ、弱者尊重であれ、あらゆる議論はすべからく資源動員論であるという観点から、サブカルチャー論を吟味してきたつもりですし、正直言って、そういう意味から、若者や高齢者や障碍者の問題も考えてきたわけです。稲葉振一郎氏の新著もそういう観点から読みました。そしてブログられているシビアな批判をみて、一読者ながらも身が引き締まる思いでした。しかし、三浦氏の議論は「生産」や「労働」ではなく、「消費」という面から独自の立ち位置を明示していて、非常に刺激的な論考であったように思っています。