「町殺し」:小林信彦『昭和の東京・平成の東京』他

 本日は8.15なわけだが、することは普段とかわらない。ミルズ本の一章を書いてみようと思い立ち、海水着を持って散歩に出た。頭の中で想をめぐらし、あるきまわっているうち、心棒のようなものが固まった。あとは書き付けるだけ。とりあえず一章書けそうな雰囲気である。元町のプールまで歩き、2500メートル泳いだ。今日は途中で手首にしていたロッカーの鍵がなくなり、大慌てで探した。潜水して、探したのだが、50メートルプールなので絶望。下手をすると、服も携帯も財布も逝ってよしぢゃンかと思い、おたおた事務室へ。そうしたら、鍵は届けられていた。横浜もまだ捨てたモンじゃないなぁと思い、今日はついていると思ってパチンコやったら8000発ほどでますた。8.15だし、なにからしい本でも買って読むかと、有隣堂書店へ。一階には8.15向けの本が積まれている。その猛々しさに吐き気がして、上の文庫売り場に向かった。そして買ったのは、三冊の文庫本である。

昭和の東京、平成の東京 (ちくま文庫)

昭和の東京、平成の東京 (ちくま文庫)

差別の民俗学 (ちくま学芸文庫)

差別の民俗学 (ちくま学芸文庫)

 職人の女房で、世話好きのおせっかい焼き、民族だとか身分だとかそんなものも気にしないかっとんだ人で、しかし無類の「アカ」嫌いだったらしい私の祖母は、学歴のかけらもない人だったが、満州事変のころから「日本は負ける」と言っていたらしいし、空襲がはじまったころに集団疎開していた娘(私の母)をおはぎを持って迎えにいき、おはぎを担当士官か何かに渡して娘を呼び出し、「負けるならいっしょに死のう」と言って「非国民」と叱られたという逸話がある。うちの近所の人たちは、そんなふうに子供を連れ帰り、子供たちは防空豪でトランプなどをやっていたという話である。8.15になると思い出すのは、この祖母の話である。そして、関連するような本を買った。沢村貞子は、戦前の日本女子大中退だし、治安維持法でパクられた「アカ」なんだろうけど、この人の筆致には「アカの可能性」のようなものをいつも感じるのだ。赤松の本は、どちらかというと、赤松の本だから買ったというほうが大きい。「非常民」という視点には、ずっと惹かれている。
 で、小林信彦の本であるが、立ち読みしていて次の文章を読んで買うことにした。「永井荷風は東京が破壊されるときに必ず読まれる。敗戦直後にブームがあり、岩波版の全集は1962年から1965年にかけて、東京オリンピックにともなう<町殺し>の時期に世に出た。そして、戦後二度目の大破壊が進みつつある現在、また全集が出るらしい」(198-199)。裏表紙の説明もなかなかわかりやすい。

 戦後の復興、高度経済成長など・・・・・・東京は次々と変化してきた。<近代化>と引きかえに、私たちが失ったものとは?下町に生まれ育ち、町の変遷を見つめてきた著者が、失われた町、もの、人への思いを綴った極私的東京史。東京に対する思い入れ、こだわり、悲しみ、やせ我慢、怒り、楽しみ、笑いが詰まった一冊。

 解説は川本三郎。ずばり「町殺し」を解説の要にすえている。別にむきになって言うほどのことでもないのだが、私は解説は一切見ないで、本を買った。帰ってさらさらと斜め読みして、上の一節などを味読して、でもって解説を見て、はじめて気づいたのだ。誰が読んでもこの言葉が脳天に突き刺さるようにこの本は書かれているのだなぁと、感心した。そして、川本も、小林も、ばったもんの下町趣味には激辛な視点を持っている。私は下町に生まれたが、18でまちを出た人間である。それでも毎年神輿をかつぎながら、ガキの頃から「町殺し」の歳月を目の当たりにしてきた。小林は、自分にとり東京は、ウディ・アレンのNYのようなものだと言う。私にとり横浜は、そんなものでもない。その違いを作品化できなければ、何も始まらないのであるが。