前期テスト採点終了

 男子200メートルの末次は、準決勝で涙をのんだ。ゴールシーンを見ると、黒人の人たちに混じって、一人子どものような日本人が走っている。そして、黒人の人以外には負けていない。しかし、技術で克服することに期待したいものである。末次を見ると、卒業生を思い出す。なんちゃらことない。くりそつなのである。峰竜太にも似ているのだが、家族には末次とゆわれているらしい。実は9月にハピサマで、アテクシも出席する。スピーチを頼まれているが、マッハの話はするわけにはいかないだろう。実は一週間くらい、試験の採点で大変だった。教養部に比べれば、たいした枚数ではないのだが、レポートだし読むのがけっこうしんどい。
 歴史社会学=間の社会心理史について言えば、間についての講述を踏まえ、私の役に立ちそうな理論やデータを示し、講義を論評することが課題である。みんな工夫して、いろんな事例を紹介してくれてありがたかった。「私も2ちゃん大好きです」みたいなことで、2ちゃんの間を主題にし、(・∀・)イイ!! (;´Д`)ハァハァなどが文中に踊っているのがあって、苦笑した。私はそんなふうに見られているのかと思った。理論的な意欲作も散見されたし、私の知らない間の本を紹介してくれたのもある。「ウェーバーと間」とか見るとさすがにぶっ飛んだが、奥村隆氏の加熱/冷却する文化装置論を南博氏の充足主義/不足主義に重ねようとしたもので、それなりの理屈は通っている。
 うちのゼミ生はよくも悪くも名前見ただけでうちのゼミだとわかるような人を食ったものが多い。リオタールの学説と間の理論を関連づけた奴がいるかと思えば、とんでもねぇ書き出しで立ち直れないくらい笑い転げたものがある。「なぜ、人間は進化の頂点にいるのにこんなにバカなのか。それは人間が他の動物に比べて高い知能をもっているがために、より貪欲になってしまうからだろう」。携帯で卒論の入力をしたいと言った椰子である。この他にも、すっとぼけたレポートがあると、ほとんど例外なくうちのゼミなのには笑ってしまった。
 この他にも、何かを写すのではなく、つたないことばでも自分の理解したことを、自分のことばで書くようにと言ったら、努力している人が多い。それでも、講義内容をなぞったようなものがけっこうあり、ちょっとがっかりしたところもある。文の書ける書けないでかなり力量の差があるように思う。これは一年ゼミのレポートなどについても言えることである。
 他方、社会学史のほうは、感想文やブログで批判的なコメントをしてくれた人をはじめ、非常に優れたものがいくつかあった。講義内容への批判を試みたものや、内容を応用したものなど、切れ味のイイ論が展開されている。全体としてこういう層は、さほど増減はない。かなり真面目に課題に取り組んだものが多く、どんでもなく人を食ったようなアホレポートは一掃されつつある。それでも若干名いて、懐かしいものがあった。一人「社学っぽく書きます」ッテ前置きして、むかし私が書いていたようなアホレポートを書いた椰子がいたりした。
 ここでも2ちゃんが好きと思われているようである。なんともにんともだ。「DQNと言ったとき私のまわりで『何それ?』とみんなざわついていましたよ」と書いてあり、まいった。宮台真司氏から学会で名刺をもらって授業で自慢したら、2ちゃんに書かれたというギャグを言ったら、有名人を知っている自慢をしているみたいに書かれたのは、若干むかついた。広域直系××組の○○さんがさぁ・・・みたいなドキュソ自慢みたいな言動は控えているはずなのだが。最初の授業だけは、ギャグの切れ味がよくそれでみんな受講したのに、あとで切れ味は悪くなるわ、なかみはわけわかめだわ、さんざんですた・・・というようなことが書いてあり、まことに面目ない。
 「ギャグを言うのはイイが、やはりウェーバーやデュルケムにまつわるものを言うべきで、身辺の馬鹿話をしても、理解が深まるのは教員の人となりについてだけだ」と書いてあるのには、まいりますた。スターリンは、インテリに見せるため鬼ぞりを入れていた。ウェーバーはその必要がなかったとかゆうのかね。かなり難しいぞ。まさか、デュルケムはめっちゃキャンタマがでかかったとは言えないからね。っつーか、それじゃあ私の人となりしかわからないし。ギャグなど言わず、パワポでリズミカルにプレゼンするみたいな講義がこれからの講義になるのだろうか。もちろん言わんとすることは、社会学者の人となりに関するエピソードなんかを高級なユーモアとして語れと言うのは、わかっておりますよ。女子大の一年ゼミほかでやっているような、対話形式というか、予習を課し、出席簿見ながら指名して答えさせてゆき、ポイントを教材提示整理するような講義形式は、けっこう得意なのだが、そーいや学史ではやってないよね。