伊藤守『記憶・暴力・システム』(法政大学出版局)

 大学に来たら、伊藤守さんより著作が届いていた。めくってみて、カルチュラルスタディースのなかで貴重な存在としての伊藤さんの姿が浮かび上がった。思い出すのは、関東社会学会のシンポで伊藤さんが報告され、その後の懇親会でお話をしたときのことである。若い文化研究者たちを前にして、伊藤さんは私にむかって「彼や私はマルクスを読んだ世代だからね」とおっしゃった。このことばは非常にしみるものがあった。それ以降の世代もマルクスを読んでいないという意味ではない。つまり、ちょっとした街の本屋さんにも、国民文庫だとか、三一新書だとかがおいてあり、大学に入学したあとに大学の書店で『資本論』を箱入りのセットで買うのが一般的な学生の姿であり、大学院をめざす学生であるならば文庫本だけでなく、ディーツ版のペーパーバックで一冊や二冊はマルクスエンゲルスの著作を読んでいるのが普通であったような、そんな時代に生きたというようなニュアンスである。
 アルチュセールも、バフチンも、ルフェーブルも、もちろんグラムシも、ルカーチも、マルクーゼも、アドルノも、ハーバーマスも、さらにはバルトやソシュールレヴィ=ストロースフーコーといった文献なども、「その上で読んだもの」であったように思う。サルトルの『方法の問題』『弁証法的理性批判』にトキメキを感じた人たちは、岩波から『国家と文明』が出たときに萌え萌えに萌え、ゴールドマンの人間学や、ルカーチ派の具体性論に向かい、それに飽き足らない人は、とりあえずアルチュセールに萌えて、それからリュシアン・セバーグだとかを読んだりすることになったと思う。めちゃくちゃなレビューだというかもしれないが、まあこれはお粗末な私の萌え体験のスケッチと言えるかもしれない。
 それはともかくとして、伊藤さんが「あとがき」に書いている「批判的社会理論のなかに記号とコミュニケーションの問題をいかに導入するのか」という言葉は、そういう文脈から読めることだけはたしかだと思う。ソビエトマルクス主義の隘路、マルクス主義的な批判性と党派制、そのなかでの人間の問題や、それとはまた別様の知的誠実の問題を追求した反省的な知見の具現化として、人間の主体性という問題や、能動的な相互作用という問題や、記号論的な転換という問題があり、パラダイムを転換してゆこうとする人々と、それをイデオロギー批判する人々との対立のなかで、駆け出しの学生・院生たちも、それなりの踏み絵を踏みながら、研究を続けた。そのなかで、イギリスのメディアスタディーズ、カルチュラルスタディーズに注目したのが、私や伊藤さんが教えを受けた、佐藤毅氏がいる。そして伊藤さんは、着実に成果を重ね、カルチュラルスタディーズのなかで、メディアの政治学、メディア文化論の研究者として、そしてまたフィスクの訳者として、若い世代にも影響力をもった研究を発表され続けている。本書は、その一部の論考をまとめ、伊藤さんの学問の一断面を示したものといえる。書影、概要、目次などを示しておく。

概要

社会のコミュニケーション構造の暴力性が露わになる高度情報化社会。メディアは、主流の価値観や意見を「常識」化させ、過去・現在の経験を「記憶」として編制し、政治的多数派の形成を推し進める。権力のテクノロジー、闘争・葛藤の過程としてのコミュニケーションを分析するとともに、オーディエンスの行為はメディアのパワーとどう関わるかを中心に、メディア文化の意味および可能性を問う。

目次

はじめに

Ⅰ闘争としてのコミュニケーション

第一章 コミュニケーション理論の刷新と文化の批判理論

Ⅱメディア文化の政治性を問い直す

第二章 メディアスタディーズにおける「階級」概念の再構築
第三章 テレビドラマの言説とリアリティ構成
−−「テクスト」と「読み」をめぐるポリティックス
第四章 抗争するオーディエンス
−−公共の記憶をめぐる対抗とテレビジョン
第五章 規律化した身体の誘惑
−−『オリンピア』をめぐる人種・ジェンダーの問題系

Ⅲ社会システムの再編成

第六章 権力のテクノロジーと行為主体の再配備
−−情報化と社会的リアリティの変容
第七章 グローバル化とテレビの文化地政学
−−現代の戦争とメディア

Ⅳ世界との応答関係

第八章 幽霊をみる遊戯空間
−−ベンヤミン意向のメディア論

 目次だけからもわかるように権力や階級という「批判的社会理論」の枠組が、カルチュラルスタディーズなどとの対比において、非常にオーソドックスに再構成されている。その際に身体論や記号論などの知見に配意し、他方で人種やジェンダーや戦争などといった問題のひろがりにも目配りをしている。そして、あくまでも「本筋」として、フィスクの翻訳者にふさわしく、メディア、とりわけテレビの研究という「ミニマム」、というか書物の貢献の核心がクリアカットされ、明示されている。通常こういう書物をみる場合に、「ハンディキャップをもったもの」の視点と対比し、その価値をみようとする、というかあら探しをする癖をもっている。たとえば、ベンヤミンで農村地帯や、地方都市がわかるのかよとか・・・(別にアテクシがわかるわけじゃござんせんけど w)。しかし、伊藤さんは、巻町の住民投票について研究を−−それも重厚な調査研究を−−されてきた人でもあるわけで、すげぇなぁと思う。
 個人的には、「読み」とポリティックスというところから、多くを学びたいと思っている。佐藤毅氏の「受容理論」のなかで、私はとりわけ「異化論」に関心があるからである。さあ勉強しようと思いつつ、本日はまたちゃぶやくりぃむの番組がある。