バカボンと荷風2冊

 横浜に帰って来たので有隣堂へ行った。かなりウキウキだ。停滞していた書き直し原稿が、上手く流れている。進まないときは、なにやってもだめ。かけないとかそういう問題ではなく、暗雲がたちこめていて、見通しが利かない。いらいらしても呆然として、論旨が頭にシュタッと定着しない。そういう時はケロケロになるまでパチンコしたり、ぷよぷよしたり、意味のないことをして、頭を空っぽにしたり、逆に本を見ながら、そこらじゅうを散歩したりする。トイレでアイディアを思いつくこともあり、風呂で思いつくこともある。アイディアとは、ネタとかトピックではなく、論旨を制御・鳥瞰する視点のようなもので、これが思いつくと、ほぼすらすら書けるようになる。思いつかないで書くと、いいたいことをつたえること以外の見得、つまりは知識や論理やその他でかっこつけたくなったりするし、あれもこれもと塗りこめて、ついには爆発して、やる気を失う。見通しが利いていれば、容易に禁欲できる。ケネス・バークの本を2冊ほど読んでいる。重要箇所は20ページほど。森常治氏の『ケネス・バークのロゴロジー』を用いれば、ほとんど読まなくても原稿は書けるのだが、やはりしっかり細かく点検していかないと孫引きなどの誤解を与えてしまう。
 陽射しは真夏の予感を感じるほどになり、少し歩いても発汗するカンジ。しかし、こっこのハローハローハロー☆を聴きながら、論旨を頭の中で転がして、精錬するような作業は誠に心地よい。有隣堂について、1階の売れ筋の新刊をチェックしてまわる。ごくあたりまえのことではあるが、それなりの見識のある本屋の「とって出し」を見て歩くことは、個性的なコンシェルジェと会話をする感じであるなあと思った。しかし、「バカ」と「頭がイイ」という本がそこらじゅうに散乱している。小論文樋口氏の本が超ベストセラーになっていることも一因なのだろうが、節操のないぞろぞろ本が散乱している。一区画そういったバカボン平積みの嵐みたいなところがあり、圧巻だった。後輩でマガジンハウスに入社した人がいて、入社したてのころ「この世界は柳の下にどじょうが三匹という世界ですから」と言っていた。そんなこともあるのかもしれないが、なんかこのバカバカバカ・・・頭イイイイイイイイの嵐は、国民的なバカボンの社会心理みたいなものになっているカンジすらある。かつて日本人論、日本人の自意識が脅迫的なまでに人気があり、手を変え品を変えでていたけど。そんな頭イイことにこだわってどうするんだ。頭イイと思い込んでいる奴ほどバカなんだし。などといろんなことも思うんだけど、私は「頭イイ本」はけっこう読んでいる。和田秀樹『受験は要領』から、樋口氏のベストセラーまでいろいろ買った。シュタイナーの影響かなんかわけわかめだが、声に出して・・・、百マス・・・、法則化・・・、みたいなマニュアル系、知の体育系みたいなものもけっこう好きで読んでいる。

バカにみえる日本語

バカにみえる日本語

ありえない日本語 (ちくま新書)

ありえない日本語 (ちくま新書)

 それにしても、「バカに見える日本語」というタイトルにはぶっ飛んだ。すごい。「ありえない日本語」とも違う。「バカに見える」というのはちからづよい。傲慢と臆病の同居は、痛ましくもあり。しかし、それをいやだと思うのは、やはりどこか人間の本質をついているからなのかもしれないなぁ。と思って、文芸書のコーナーに行ったら、荷風本二冊平積みになっていた。川本三郎氏ほかの図説本。単なる図説本と違い、解説も読み応えがある。写真も興味深い。もうひとつは、『朝寝の荷風』という人文書院の本。女性が著者。フェミニンな荷風というのは、言われてみればのコロンブスの卵だろう。「単独者」「独居人」という視点から、女性性を打ち出した論じ方になっている。玉の井がよいから、戦後はヌード劇場の踊り子に混じって笑っていた晩年ということはどうなのら?とか思わないこともないけど、踊り子に混ざった写真が一本歯が抜けていたりして、底抜けに笑っている。石川淳の議論と比べてみるのも面白い気がした。
図説 永井荷風 (ふくろうの本/日本の文化)

図説 永井荷風 (ふくろうの本/日本の文化)

朝寝の荷風

朝寝の荷風

安吾のいる風景・敗荷落日 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

安吾のいる風景・敗荷落日 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

 最近テレビの話ばかりですねと言われた。要するに忙しくてテレビくらいしか書けないのである。忙しい日本人ならではの文化がテレビというのは、馬路当たっていると思う。ビデオを借りる場合も、お笑いか、テレビドラマ以外は重い。速く原稿を書き上げないと。