井山弘幸『お笑い進化論』青弓社

 伊豫田康弘現代文化学部長がお亡くなりになった。心筋梗塞と聞く。まだ還暦前で、これからというときに言葉もない。文理、現文と学部はちがうが、委員会のお仕事他を御一緒させていただく機会があり、お話ができるようになって、これからようやくメディアのことなどいろいろご教示いただこうと思っていた。そういう意味でも残念である。本日ご葬儀であったが授業があるため、昨日お通夜にうかがった。ご冥福をお祈りしたい。
 研究室に来たら、青弓社から『お笑い進化論』が届いていた。編集者からの献本である。戦後のお笑い史などを考える上で重要な文献であり、社会心理史の講義で活用していこうと思うし、またお笑いで卒論を書くのが四人いるのでそういう面でも「使える本」である。ほんとうにうれしかったし、心よりお礼申し上げたい。まず出版社HPから、寸評と、目次などをここに掲げておく。

お笑い進化論 (青弓社ライブラリー)

お笑い進化論 (青弓社ライブラリー)

▼紹介
取り違えやシュール、ピン芸人、漫才などのお笑いの形式を整理しながら、古参から若手までの芸の実例をふんだんに取り上げ、笑いのからくりを解明する。多重化したリアル、アイデンティティーの変容など、作品としてのお笑いからにじみ出る時代性を析出する。


▼目次
序章 笑いの風景
 1 笑いの多様性
 2 笑いを引き起こすのにかかる時間
第1章 笑いのパラレル・ワールド
 1 笑いの個人差
 2 笑いの学説史
 3 笑いはパラレルな世界で生まれる
第2章 取り違え図式――笑芸コントの世界
 1 競合するパラレル・ワールド
 2 現実世界とパラレル・ワールド
 3 現実の非現実化とパラレル・ワールド
第3章 シュールの彼方へ――お笑い革命の深層
 1 ザ・プラン9の語るシュールとは?
 2 アート系コント芸人ラーメンズの登場
第4章 現実の発見的再認――「悲しいとき」に笑うのは「なんでだろう」
 1 この世にあるおかしいこと
 2 あるあるネタのつくり方
 3 自分を笑う理由
第5章 物語の現実化と現実の物語化
 1 昔話という笑いの資源
 2 人間世界にあるドラマ
第6章 漫才あるいは距離の芸術について
 1 漫才の形式的特徴
 2 進化するボケとツッコミ
 3 メタ漫才と濃縮された多重性
終章 人はなぜ笑うのか


▼著者プロフィール
井山 弘幸(イヤマ ヒロユキ)●著…1955 年、静岡県生まれ。新潟大学人文学部教授。専攻は現代科学論(科学思想史、ユートピア論)。著書に『偶然の科学誌』(大修館書店)、『鏡のなかのアインシュタイン――つくられる科学のイメージ』(化学同人)、『現代科学論――科学をとらえ直そう』(共著、新曜社)。訳書にロバート・ベル『科学が裁かれるとき――真理かお金か?』(化学同人)、テレンス・ハインズ『ハインズ博士「超科学」をきる』Ⅰ・Ⅱ(化学同人)、ピーター・バーク『知識の社会史――知と情報はいかにして商品化したか』(共訳、新曜社)など。

 本書は、著者がここ数年行っているお笑いに関する講義やゼミの成果を踏まえた作品である。著者が教えている新潟大学と言えば、私の前任校である岡山大学と同じく旧設六医大=旧六(他は、金沢、千葉、熊本、長崎)の一つであり、教室の風景、研究室の雰囲気なども似通っているだろう。もちろん教師によってもちがうだろうが、「地方国立」独特の人間関係があり、対話があり、それによって濾過されて、学問成果が公刊されているということに、なつかしさと、喪失感を感じた。たとえば、アンガールズは若い人にはスゲー面白いみたいだが、おやぢにはわけわかめだみたいな記述がある。また、学生に支持の高いお笑いがどんなものかを、アンケートみたいにして調べ、結果が公表されていたりする。行間の随所に、「地方国立の思い出」を感じるのは、冒涜であり偽善であり誤読であるとは思うのだけれども、この本が丁寧に書かれていて、非常に読みやすいことの一つの理由が、そうした教室、研究室での濾過を経由していることであることだけは確かであろう。
 笑い論というのは、『社会は笑う』等を例外とすれば、やたらに思想用語が乱用されていたり、文芸や、亜流フロイト主義な性知識や、お笑い芸人マイナー知識、お笑い事情舞台裏うんちく、ゴシップ、ギョーカイネタ、感性センスチョイだろう自慢だとか、いろんなことをちりばめてしまいガチになり、非常に見苦しく、読みにくいものになることが少なくない。ブログなんかを書いていても、ついつい独りよがりなものになってしまう。女子大の学生などは、「へぇ〜そうなんだ」などと言っていて、あとで「馬鹿じゃねぇ、鼻の穴おっピロゲテなに自慢してんだよあの馬鹿オヤジ」とか言いまくり、それが間接的に誰からともなく耳に入るような計算尽くみたいなのがあり、それはそれで身に染みるのだけれども、ガチでいろいろ討論したりして、学生が鼻についたことなどはきちんと指摘し、意見交換をし、わかりやすい(intelligible)な例解や論理構成などが組み立てられていっただろうことは、想像に難くない。当然知っているよな・・・みたいな知識を前提にした論述は妥協なく排され、広範な作品を執拗に書き起こしをして、説明がなされているので、私のように局所的にしかお笑いを見ていない人間にも、非常に読みやすい。とてもイイ先生でもあるのだろうなぁと思った。
 最後に「ボケとツッコミ」論で話をしめくくっているのは、『社会は笑う』の論述に対する批判的なコメントにもなっていると思う。ボケとツッコミの融解みたいな議論や、ロマネスク論などにひっかけながら、ロマネスクが成立するには現実(リアリティや倫理)が盤石じゃないといけないみたいな議論は、非常に興味深くはあった。また、漫才=距離の芸術論などは、「間」の議論をよりわかりやすく展開しているようにも思った。ただ、最後の章は、ちょっと説明が足りなく、不満が残った。と言うか、もっと読みてぇと思った。もしかすると、王様のレストランじゃないけど、「それはまた別のお話」と森本レオっぽくゆって、次回作の予告をしているのかもしれねぇなあ。
 この本はかっこつけるために書いている本じゃない。筆先のキメ文句でもっともらしいあてずっぽを言って悦に入っているような人間や、かっこつけてないようでどこかかっこつけたい人間には、とても怖い人だなぁと思った。まあしかし、それは芸風の違いということだけなのかもしれない。また科学史の人が、「距離の芸術」論を展開していることは、ある意味ショックである。つまり、相対性理論の哲学や、カッシーラの哲学なんかは、おちゃのこさいさいだろうからである。「間」とかもっともらしく言っている場合じゃねぇよなぁ。しかし、勇気を振り絞ろう。