白州正子『世阿弥』講談社文芸文庫

 昨日は夜久々に阿佐ヶ谷に行って食事。その前に駅前の本屋で本をみた。渋澤龍子が著した渋沢龍彦の回想録が平積みになっていた。配偶者の回想とともに、三島由紀夫吉行淳之介石川淳といった人のことが語られていた。白い表紙のきれいな本である。奥付に30日発売とあった。旧字体などの問題もあるのか、書影もでないし、ググってもひっかからない。他に、能の本を何冊か購入。今さら勉強してどうにもなるものでもないし、それはとても危険な誘惑なのはわかっているけれども、多少なりとも言及する以上最低限の教養ちしきなどは身につけておかなくちゃというくらいのつもりであり、能について何かを論じようという気はさらさらない。こっそり能を見に行ったとしても、その感想をここに書くような無様な真似だけはしないようにしなくてはとは思っている。正直言って、能のほんとかを読んでも、わけわかめなことが多い。たとえば、勤務校と若干ゆかりのある観世寿夫の本なども読んではみたし、論客の才気のようなものは伝わってくるような気がしたものの、正直私のような者にはシュタッと理解できない部分も多い。それは、私がろくに知識がないことと、能を見る経験があまりに貧しいからに他ならないと思う。

観世寿夫 世阿弥を読む (平凡社ライブラリー)

観世寿夫 世阿弥を読む (平凡社ライブラリー)

 じゃあ、「シュタッ」とはなんなのかと言えば、言ってみれば能のあれやこれやを、初心の者にも an sich にというか、つまりはΩにしてαをわからせてくれる、というのがおこがましければ、そういう気にさせてくれるようなものである。そういう意味で白州正子の次の一節は非常に心に残っているというか、頭に突き刺さっているカンジがする。『世阿弥』の冒頭部、大阪で梅若義政という6つの子どもの初舞台をみたときの記である。

能は猩々でした。真赤な装束に着ぶくれたシテが、ねむたくなるような笛にのってゆらりゆらりと舞台の上に現れます。可愛いというより、木彫人形みたいなとぼけた格好で、教えられたとおりを安心しきって舞っているのを見ているうち、いつもの能から受けている感じとはまるで違うものがあるのに気がついた。
 いつもの能とは、世間でよく言われているような、圧縮された緊張感とか、完全な形式美とか、そういう範疇に入らないまったく別な美しさで、たとえて云えば地方の民謡や琉球の踊などに未だ残っている、あの自由で、自然な舞いぶりなのです。
 たしかに、美しいという形容にはあてはまらない。勿論、巧い筈もない。が、徹頭徹尾あなた任せの熱心な舞には、何かしら人をはらはらさせるものがあり、舞い終えた後、止拍子を踏み、扇をとじて橋掛の方へ向いたとたん、後見に座っていたおじいさんの実氏と、顔見合わせてニコッとした。
 満場、われんばかりの拍手です。舞台と見物席を完全に一体となった、こんな和やかな風景は、鹿爪らしい能楽堂の中で、未だかつてみたことがありません。だから印象に残っているのですが、咳でもくしゃみでもしかねない「猩々」といい、舞台と見物をわかたぬ満足といい、お能のほんとうのあり方とはこうしたものではないか、もしかすると私は、足利時代の幻を見たのかもしれない、ふと、そんなことを思ったのでした。

世阿弥―花と幽玄の世界 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

世阿弥―花と幽玄の世界 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

 こうした印象は、それまでみてきたことが、子どもの能を触媒にして凝結したものであると白州は言い、それを「花」という言葉で表している。「申楽は遠見を本として、ゆくやかにたぷたぷとあるべし」。のびやかにたっぷりした、脈拍の鼓動と長い息づかいが、読者にもはっきりと伝わってくる。それに比べれば、「圧縮された芸術」「束縛された美しさ」というような紋切り型語句はなんとまずしいことだろう。白州のこの文章は、なんとなくわかったような気にさせてくれる説明でありました。もちろんこれだけで何かがわかるとは思いません。
 授業でここに言及するか迷った。しかし、言及せずに、中井正一「日本の美」をひたすら紹介した。太鼓のポーンについては、くちびるを中指ではじき、むかしこれやって怒られたとかゆって、ガキの間も大事だぜとかゆう、アホなことになってしまいマスタ。