永井龍男『わが切抜帖より−昔の東京』

 今度は自宅のほうの本の整理をはじめ、埋まっていた本がいろいろ発掘されている。そのなかで今日思わず読み入ったのは、永井龍男『わが切抜帖より−昔の東京』(講談社文芸文庫)である。永井龍男は、新聞記事に書かれた人々の暮らし、日常生活のなにげない出来事に目をとめ、切抜をこまめにしていたと、解説の中野孝次氏は言っている。小説「青梅雨」は、切抜を集めて書かれたものだという。本書は、まさに表題の如く、切抜をもとに、「昔の東京のくらし」について書いた随筆を集めたものである。論じているのは、銭湯、寄席、魚河岸といったものから、ライスカレー、カツレツ、野球といったものまで様々である。震災と戦災によって完璧に消失してしまった「故郷=東京」について、愛のある文章が書かれている。こんな切抜帖風のブログを書いて、でもって小品集といった体裁の社会学書を出してみたいなぁと思いつつも、頭が類家明日香な乳搾り、「へいあ〜ん」と独り言を言い、クビを右に左にポーズをキメて、クビの体操をしている今日この頃今の時であり、なんとも人ともトホホなのである。しかし、永井龍男が消えちまった東京のライスカレーやカツレツ、今のじゃなく昔ながらのを喰いてぇと呻くブルースは、ボクの心にもジツにしみるものがある。

 中野氏も引いている「わが寄席行灯」は、「昭和40年」頃の時点において、戦前の寄席を描いている。かろうじて私がテレビで見ることができた落語家たちを話題にしながらの文章は、萌えボタン百連発な滋味で迫ってくる。ジツに(・∀・)イイ!!。永井龍男は、デパートの寄席名人会はばかゆーんじゃないよッテなカンジで、昔の寄席は表通りじゃなく、路地裏にあったモンだみたいに、話をはじめる。マンガ『寄席芸人伝』でみた、路地どん詰まりのつきあたりにある「大路地」風の寄席の話なんかも出てくる。でもって、下町の路地が入り組んだ街並み、路地を通ると近道できたみたいな暮らしのありようなどが、「家の者によく寄席に連れて行ってもらった」みたいなところから、さらっと描いてある。この出だしだけで、てぃんてぃんぴんこだちの萌えボタン20連発ですわ。
 もちろん私が育ったのは、戦災も経過した時代の、横浜というハイカラを気どったなんともにんともなところだ。出身は?横浜。けっして神奈川とは言わない。鋭くはなわに指摘されてしまったようなところである。それでも、焼け跡から、下町の街並みがつくられ、向こう三軒両隣な人間関係のなかで、たけしの暮らした足立区な生活が営まれ、寄席なんてイキなものはなかったけど、テレビで見たり、デパートの名人会の類もたまにはあった。が、そんなものも、高度成長のなかで、ビル群開発によってずたずたにされ、大量に上京した京浜工業地帯の労働者たちの歓楽街に変貌していった。まあそれでも、へりくつは言わないけど、低学歴のために充足されない文化的な渇きを癒すため、バンツマだとかなにかを飢えるようにみた馬鹿親ぢがいたし、そういう親ぢを婿養子はしょうがねぇなぁ職人修行にもついてこれずにと見つめる頑固職人のぢぢいがいた。そのぢぢいまでが、『風とともに去りぬ』を見に行ってしまったというのが、敗北を抱きしめた日本だったのである。永井だって、ライスカレーとか好きなんだからさ、テレビの落語とか、百貨店の名人会はダメという、言説のなかみはわかるけど、それが教条になったら、野暮だよ。そんなことは言わないだろうと、中野孝次は、百貨店の名人会で、文楽や、志ん生や、三木助や、円生をみたことを堂々と述べている。
 社会だねを噺にしたようなぎすぎすした新作をやって大得意になっているような文楽の師匠を、「噺は下手で」とスルーする。ただ政治力のあった落語家らしいとうんちくを交えつつも、文楽の高座の品の良さを「『明烏』のような吉原の噺をしても上品」、「大店の若旦那」のようと、活写している。私は文楽は、なくなる間際にテレビで何回か見ただけだが、やわらかな穏やかな笑顔と、町人っぽい立ち居振る舞いに和むものを感じたことを思い出した。これに対して、円生については、けっこう辛辣なことをゆっている。

 当事の円生はにやけた男で
「なんていい男がった奴だろう」
 というのがわが家での定評になっていた。

 若いうちキザなくらいなほうが、のちに大成するみたいな理解も示してはいるけれども、「わが家での定評」としてあった美学のようなものは、とりあえずは「キザ」に毒づく類のものであったことはよくわかる。私の「わが家」もそうだった。ちょっと学のある(と言っても新制高校でているだけのことなんだけど)母親が、古典落語はやっぱり(・∀・)イイ!!などというと、「さいですかさいですか」とか、「先生のおおせは」などと口走り、皮肉に笑ったぢぢいを思い出す。尻馬に乗って、新作のほうが面白い、古典なんかつまらねぇ。今輔のばあさんはおもしろいねぇ〜、なんちゃらもっといだかなんだかしらないけど、そんなのよりは三平の「よ〜し〜子さ〜ん」のほうが笑えるとか、わけもわからないのに理屈を言っていたことの馬鹿さ加減も確認しておかないと不公平だろうが。っつーか、ちょっと本読んでこんな文章を書いていること自体、アタタタなわけだわなぁ。まして、「芸のある社会学者になりたい」とかゆったら、どんな風にからかわれ、毒づかれただろうかと思う。
 芸はほとばしり出るものの、制御なのだろうか。円生は、キザを飼い慣らし、とんでもない芸を確立した。文楽は、下手でヒヒぢぢいな政治屋の師匠を反面教師とし芸を確立した。三平は、晩年古典に題材をとり大作に挑戦した。ガキの頃、と言っても大学生にはなっていたと思うけど、なんかこれはチゲーんじゃないかと思っていた。なら、志ん生は?永井龍男は、「現在の志ん生の、若い頃の印象がまったく残っていないのが奇妙」とゆっている。別にここでなにか言いたかったわけじゃないよなぁ。まさか。
 おまえ、落語なんかたいしてシラネェくせに生意気言うなと言うかもしれない。落語のうんちくをかました覚えはない。「わが家」のブラウン管で見た名人達人たちの姿は、ぢぢいや馬鹿親ぢの反応と重なり感じたこと、脳天に突き刺さっていることを、永井龍男の文章を読んで思い出し、少々描いただけのことである。