都市空間の「余白化」:若林幹夫他編『東京スタディーズ』

 明日まで横浜滞在のはずが、忘れ物をしたことに気づき、東京に戻ってきた。最近こういうことが多い。萎え萎えだ。それはまあともかくとして、吉祥寺駅に着き、チャリンコのおいてある大学にバスで向かおうかと思ったが、チョイとだけ時間があったので、弘栄堂で本を見た。そしたら、な、なんと、吉見俊哉・若林幹夫編著『東京スタディーズ』(紀伊国屋書店)が出ていた。装丁といい、ちょっとポスモダ〜『アクロス』っちょい仕様であって、そーいや編者たちは、かつて三浦展氏たちとコラボレーションしてた時期もあるよなぁなどと思い手にとった。書影はまだついていない。そのうちつくかも。っつーか、ヤフーにはウプされている。また、「はてな頂上作戦」@『ユリイカ』界隈ではすでに話題になっている。

東京スタディーズ

東京スタディーズ

 じつは、私はあんましこの手の本は買わない。意図的に買わないと言った方がイイと思う。東京じゃなきゃ買うけど、東京だから買わないわけである。『博多スタディーズ』『上京スタディーズ』なら、ぜってー買うと思うけど。ただ、今年は、成蹊大学で「吉祥寺サブカルチャー研究」というパンキョーのゼミみたいなのをする。これに女子大の調査実習もかぶせて、それなりに教育活動をしようかとも思っていて、じゃあやっぱりこれは買っておくべきだろうなぁと思い、買った。
 臨海副都心、六本木、エスニックスポット、新宗教建築、野宿者、米軍基地と「湘南」、スケボー、ハイキング、郊外、文学、映画、ポピュラー音楽(脱地名)、TVドラマ、台湾、交通、情報誌、八〇年代以降、秋葉原セクシャリティ、皇居・丸の内などの主題が採りあげられ、北は下妻、南は鎌倉、東は幕張、西は高尾山、平塚あたりまでをカバーしている。「アクロスっぽいもの」から「カルスタっぽいもの」へ、「豊かな消費社会」から、オウム、少年犯罪を経由して、不平等化社会、ひきこもり、少年犯罪までの経過を踏まえつつ、「パルコ的なもの」に対して、一定のオトシマエをつけつつ、論をとりまとめたことは、『Tokyo in transition』として興味深いし、教室で使うことを考えても、使えそうってカンジで、(・∀・)イイ!!買い物をしたと思っている。
 書き手は、編者の他に、都市の外国人問題を扱って有名な田島淳子氏、『都市の社会学』の著者で都市底辺層などの研究をしている西澤晃彦氏、映画の社会学として知られる中村秀之氏、セクシャリティ研究の赤川学氏、『広告都市東京』の北田暁大氏、関西都市フィールドワーカー永井良和氏、スケボー研究で注目の田中研之輔氏など、社会学ギョーカイの人たち以外にも、ポピュラー音楽学会会長で地理学者の山田晴通氏、文学者の石原千秋氏、建築学者五十嵐太郎氏などである。
 かなり多くの部分(30−40%くらいかなぁ・・・)を若林幹夫氏が書いている。冒頭の論考で、「力なき力」に注目しているのが、とりわけ目についた。関東社会学会のシンポジウムで、長谷正人氏と若林氏らがコラボレートしたときに、長谷氏が、北田暁大氏や、太田省一氏を引きながら、若者の「さみしさ」というイメージを提示して見せたことを思い出す。典型的には、『社会は笑う』にある、ギャグを言っておそるおそる「うける?」と聞く、へなちょこな若者である。若林氏は、「都市空間の余白化」という指摘をしている。例示されているのは、ヴィーナスフォートや台場一丁目商店街。それを、記号やイメージの乱舞で充填することを断念すること。そういう意味での充足主義(南博)的な都市空間を断念すること、そして都市空間を「余白」とするような「島」のなかに心地よく内在すること。それは宮台真司氏が言う「島宇宙化」であるとか、「第四空間論」と、一定シンクロしつつも、いくぶん違った地点から、都市の「力なさ」を眺める視点として、非常に刺激的である。それは、伊藤守氏、奥井智之氏、奥村隆氏、中筋直哉氏、北田暁大氏、渋谷望氏などがシンポジウムで議論した内容とも連なり、そしてそれを総括しつつ、「書をもって街へ出よ」と語りかけてくる。
 「余白でそっとつつむ」と新井満は言った(『そこはかとなく』ほか)。そして、見田宗介現代社会の理論』(岩波新書)をテレビ番組化したとき、新井は出演し、同じようなことを言い、得意のサティー論やオキーフ論を展開した。見田氏の著作の企画のもとになった研究会に、編者2人や奥井氏が出ていたと、その著作に見田氏が書きつけていたことを思い出す。私は、そこから多くを学びつつ、「間の社会学」を志すようになった。それは南博氏らの仕事から独自に学んだことだと思いこんでいたが、こうしてみてみると、シンポジウムなどから無意識のうちに多くを学んでいたのだろうなと思った。
 井上章一氏は、社会学者の文化論に「お約束」のようにつけられる社会学的な理屈がウザイ、じゃまくさいと言った(『現代文化を学ぶ人のために』)。自分自身もそういう「お約束」に従いつつも、読者としては同じように思ってきた。しかしこの本は、そういういみでのウザサはないと思う。またゼミのテキスト候補が増えてしまった。まあ之は調査法かなぁ。と、例によって、あれもこれもと四月病な今日この頃。w