天田城介『老い衰えゆく自己の/と自由』(ハーベスト社)ほか

 ブログをはじめて、いろいろな人と思わぬ出会いをすることが何度かあった。面識があるかどうかにはまったく関係なく、読んだ論文やほんのことをここに書いている。誰かがそれを見ていて、「通報しますた」ってわけでもないのだろうが、書いた方がそれを読んで下さる。なかには書き込みやお便りをしてくださる方もいるということである。それにしても、天田さんは分野違いと思われる人も多いとは思うが、理論的な論考も数多く執筆されており、学会誌に載った論文のことをたまたまここで論じたら、メイルを下さって、びっくりした。日本人の書いたよけいな論文は引用しなくてもいいのではないかという昨今の風潮に若干の反発を感じていることもあり、丁寧にレビューを行い、逐一を誠実に読解し、問題を丁寧に整理されている書きぶりに、海老坂武氏の本読みに似通った知的興奮を感じ、ここに書き付けた。そしたらメイルをいただき、さらに二冊の本までいただいた。

老い衰えゆく自己の/と自由―高齢者ケアの社会学的実践論・当事者論

老い衰えゆく自己の/と自由―高齢者ケアの社会学的実践論・当事者論

“老い衰えゆくこと”の社会学

“老い衰えゆくこと”の社会学

 書影がでねぇのが、バリ残念だが、スゲー重厚な本だ。むかし新睦人氏が社会学会の学会誌に書いていた「センターを守れる人」である。つまり、理論と、調査とどっちもできるということ。保健医療福祉の分野であるが、構築主義ルーマンなどの理論的な研究動向もシュアーにおさえている。そして、理論的な論考も発表していながら、重厚な調査研究も行っている。馬路本格派だ。が、ほんの構成自体は、理論よりである。まだ三十そこそこで、メディアウケする類の書き方でもないのに、単著三冊。ぶっ飛びます。「私のような下手物、イロモノの類に、献本していると偉くなれねぇよ」と、忠告したい気分だが、宮台さんに名刺をもらったり、北田さんに本をもらったりというのとはまた別様の光栄な気持になった。軽快に新書なども著してゆくのか、それともぐっと腰を落として重厚な調査研究プロジェクトなどを推進してゆかれるのか、人のことだが、考えるとワクワクする。
 『老い衰えゆく自己の/と自由』の方は、アイデンティティや当事者性について深く議論しており、小谷敏さんとの議論なども思い出して、非常に興味を引かれた。「厳しくご批判いただきたい」などと著者は希望されているが、そんなことは読みのめちゃめちゃ遅い私には時間がかかる。また、私は、あまり人を批判できない人間なのだ。これは気が弱いとかそういうことではなく、また「(・∀・)イイ!!とこ探し」というわけでもなく、なんでもかんでも面白く見えてしまうのだ。学生時代、悩みをサークルの後輩の田崎英明氏に話したことがある。そうしたら、彼は「上手くほめるのも、上手く批判するのも、同じ紙の裏表にすぎない」と言ってのけた。自分は自分のスタイルでものを語るのみだ。ただ、「語り得ぬもの」「場」「存在の暴力性」などに肉薄する議論の迫力に圧倒されているということだけはたしかである。まだめくったばかりで、局所的な論点やなにやかやに、意見を言うことはできない。また言える力量が私にあるのかもわからない。
 それを前提にしての話だが、あとがきの一節がとても印象的だ。というか、ここにある一種の飛躍に、感銘を覚えるとともに、自分が考えていたことよりも、数段周到に議論を展開している人を発見したことの、驚愕に近い気持を率直に吐露しておきたい。「当事者」の語りに共通するエッセンスは、一言で言えば、<あいだ>なのだと、天田さんは言われる。そして次のように言っている。

 興味深いことに、<あいだ>とは、全く矛盾・背反する意味内容を自らのうちにかかえている。一方では、「直接的に接続しないふたつの時点や事物の非連続性を充たす空間・時間」を意味しながら、他方では「いずれの領域や関係に所属・帰属しないもの」を指し示す。また、「一連の継続的な時空間」を示しながら、「人間の関係性」を表している。
 言い換えれば、<あいだ>とは<同一性>と<偶有性>の混淆性・混在性・混声性によって生成・構成される「人・間」「時・間」「空・間」でもある。また、<あいだ>とは言うまでもなく、《間=あいだ》であり、《隙間=すきま》《透き間=すきま》《空間=すきま》である。
 そのように考えると、《隙間=すきま》《透き間=すきま》《空間=すきま》とは「透いている場所」であり、「あいた時間」である。つまり、「通り抜ける何か」のある余白・余地・余剰・余響・余薫である−−ちなみに、「すき」は「油断」も意味する。英語で《間=あいだ》であり、《隙間=すきま》《透き間=すきま》《空間=すきま》を表現すれば、“crevice”“crack”“chink”“gap”となるのであろうが、それは「裂け目」「「割れ目」「欠落」を指し示すと同時に、「僅かな開き」と「隔たり」と「ズレ」を、そして“opening”とも英訳することが可能であり、その場合には「開くこと」「解放」「開始」「始まり」「序幕」「穴」「通路」「好機」などを意味内容とすることになる。
 したがって、<あいだ>とは、<同一性>と<偶有性>の混淆性・混在性・混声性という「通り抜ける何か」のある余白・余地・余剰であるが故に<言語>に「亀裂」と「裂け目」を刻印し、それが<私>に「割れ目」と「ズレ」を引き起こすと同時に、<私>を「開く」ことになるのである。それは<私>の新たな「序幕」であり、「通路」であり、「好機」となるに違いない。それはいまだ名もなきものだが、可能なる<自由>なのだと思う。
 このように書くと、全く非現実的なことを語っているように感得されるやもしれないが、きっとそうではないだろう。こうした<老い衰えゆくこと>をめぐる<あいだ>においてこそ老い衰えゆく自己の/と自由は存在(inter-est)しているのだと思う。<自由>は我々の現前に常に既に現れているのだ。だが同時に、強大な力でなにかによって隠蔽されているのもまた事実である。本書はこうした<老い衰えゆくこと>の<あいだ>における<自由>の可能性をできるだけ忠実にその現れを描き出したいと思って書いた。

 外国語の素養が若干ないと、「inter-est」の含蓄はわからないと思うが、要するに「あいだ」にあるっつーことだろう。私が自著でサブカルチャーを問題にしたのは、田舎、老人、障害者など、文化などない、あるいは優勢な文化を一方的に押しつけられている人々の文化を見据えたいと思ったからだ。かつての若者もそうだっただろうし、女性も、人種も、あれやこれも含めて語れるだろう。そして、それが「メインになること」を、メインとサブの変幻に注目しながら観ようとし、さらにサブを眺める視点として「間=ま」を導入しようとした。そんなこんなの、私のか細い議論に対して、天田さんの重厚な理論と調査は圧倒的な存在感で迫ってくる。幸か不幸か重ならないところも多い。十分勉強して教えを請いたいと思っている。そんな思索を楽しんで3日、ちょっと幸せな気持である。