毛利嘉孝編『日式韓流』

 朝から社会学史。それから大学に行ったら『日式韓流−−『冬のソナタ』と日韓大衆文化の現在』(せりか書房)が届いていた。編者とあったので毛利さんが送って下さったことになる。卒論指導やゼミの前に。ひとしきり読んだ。関東社会学会でお目にかかったわけだが、恐縮してしまった。ありがとうごぜーやす。カルチュラルタイフーン@沖縄で、毛利氏と、岩渕功一氏が出会うことで、この作品は企画されたという。それにしても、短期間でできあがったものだ。
 なんだカルスタかよなどとおっしゃるムキもあるとは思う。しかし、毛利氏のおもしろさは、ギルロイだ、ホールだなんだと、諸々の学説に精通していることもあるけれども、それらはいったんチャイして、いろいろなものをさほど大がかりな装置を組み立てるのでなく、ふっくらとした柔らかな論理で説明してみせる手業にこそあると思ってきた。ちくま新書だって、『実践・・・』の方が数段面白い。ポピュラー音楽学会での「パソコンあれば誰でもCDつくって売れるようになった」みたいな発言も、非常に萌えだった。一方『トランスナショナルジャパン』の岩渕氏も、理論が五月蝿いってことはなく、チャキッとした論理と、豊富な実例などで、わかりやすく問題を説明し、学生たちにも絶大な人気の人である。
はたして、読みやすく、面白い。でも、事実や理論を調べ上げていることは、読んでみればわかる。でありながら、「冬ソナを勝負下着で見てる母」(トリンプ川柳)なおばちゃんが読んでこそ、意味のある本だと思う。そのわりに目次はかたいかもしれないけどね。下手なうんちく本などよりは、ずっと冬ソナ通になれると思う。本屋さんのご厚意すらあれば、この本はなかなかのスマッシュヒットになるかもしれない。が、そういう販売戦略はとっていない。表紙にヨンサマがさわやかな歯で笑っていたりはしない。で、その目次だけど、

Ⅰ 日本における韓国ドラマ
 1.「冬のソナタ」と能動的なファンの文化実践
 2.まなざす者としての日本の女性観(光)客
   −−「冬のソナタ」ロケ地めぐりにみるトランスナショナルなテクスト読解
 3.新聞に見る「ヨン様」浸透現象
   −−呼称の定着と「オバファン」という存在
 4.韓流が「在日韓国人」と出会ったとき
   −−トランスナショナル・メディア交通とローカル多文化政治の交錯
Ⅱ 韓国における日本のドラマ.
 5.韓国における日本大衆文化の受容と「ファン意識」の形成
 6.インターネットにおける日本ドラマ浸透とファンの文化実践
   −−消費者制作の字幕によるテクストの変容
 7.リメイクの文化戦略
Ⅲ 日韓ドラマのアジアの受容
 8.アジアの方程式

 この本はファン文化についても論じている。土曜日に議論すればよかったなぁ、というか、いろいろあったにしても買いに行っていない=「これから出る本」をチェックしていなかったことを恥じた。辻泉氏的に言えば、ここで言われているような「能動的なファン」ということに対して、それなりの混ぜ返しをするのではないかと思う。そう言えば、報告において、竹内郁郎氏、佐藤毅氏、児島和人氏らが提示した「受容理論」についても、いろいろおっしゃっていたなぁなどと、考えはじめた。さらに「大衆文化」という文言についても、辻氏はなにかおっしゃっただろうなぁと思った。
 韓流だとか、K−POPだとか、いろいろな文化シーンに気楽にアクセスできるようになること。いろんな地域にいろんなシーンができて、交流があって、楽しめてみたいになるといいという観点から、私は韓流を見ているし、そういう意味ではよいと思っている。商売になることを、否定することもないと思っている。
 プロレスは衰退したということを、とある後輩に話したら「本当にそう言えますか?」と言われた。つまりいろんなチャンネルで、いろんな団体のものが見られるようになった今は、力道山や馬場の試合しか見られなかった頃よりは、数段すすんでいるのではないかということである。CDだって、制作と流通のルートがフレクシブルになってきている。「資本」のほうは、それをしたたかに使いこなすに至っておらず、溜息混じりになってきている。青息吐息のプロ野球は、ITみたいなものをどう使いこなして行くかというビジネス戦略をせまられてりしているのは面白い。大リーグに行くからダメとか、BSが大リーグをやるからダメと言うことはないと思う。高校野球はけっこう人気あるじゃん。などというと、そんなものはビジネスにどうのこうのとぐだぐだ言われるかなぁ。まあともかく、消耗品を大量生産して大量販売するみたいなワンパターンの戦略は、みんなアホらしくなってるんじゃないのかね。
 ごちゃごちゃいりくんで、フレクシブルにひっついたり、はなれえたり、つまりはデジ操作ができるようになってきていて、その技術的な根拠もとりあえずあるなかで、中心からワンパターンに大量流通させたり、中心へとワンパターンに大量動員するのは、あほらしいことになっていることだけは事実。そこで大量に売ったり、買ったり、楽しんだり、なんだかんだという戦略的な枠組みをつくって、利用されないようにしたたかであり、楽しさにぶっ飛んで、そこそこ全体を見ているみたいなことが、一つの準拠点として必要になっているというのが、文化シーンを見ていくときに大事なことだと思うし、土曜言いたかったことだし、今日この本をパラパラめくってかんがえたことであります。
 たぶん支離滅裂だと思うけど、一応貼っておき、明日にでもまた考えます。