大学図書館について

 以前に june_t 氏やdice-x 氏が、佐賀大学図書館がチョー人気のハリポタを人気投票で買ったということをごるぁああとおっしゃっていた。佐賀大学だけではないということは、たしか小谷野敦氏も著作で書かれていたように記憶している。東京大学でも、似たようなことは起こっているらしいのである。たしかに限られた予算なワケだし、フンなもの買う必要はないというのは、私も禿げしく同意である。
 まあただ、一つ言えることは年度末予算消化のために、本屋さんがつくってきたカタログで、ポンと50万円なんていうシリーズをサクサク納入するよりはましかもしれないなあと思わないことはない。それはカタログの質にもよるだろう。(・∀・)イイ!!ものを持ってきてくれた場合などは、それを入れることは意味があると思う。でも、在庫一掃とばかりにつくったようなバッタモンのカタログで、外国語のコレクションだからといって、むやみやたらに買いそろえるのだったら、馬路意味ないし、そんなくらいならハリポタのほうがましということになってしまうだろう。図書選定は、かなり真剣に行わなければならない。めんどーだから、本屋任せなんていうのは、これに限っては危険である。ウチは端末から注文できるようになっていて、『これから出る本』だとか、丸善ナウカや極東や紀伊国屋のカタログで欲しいものがあったら、知るしつけて出せとか、大学院生とかには言っているが、なかなかやってくれない。私らの頃は、ゼミによっては、こういうカタログの類を整理するのは、大学院生の仕事だった。うちのゼミは違ったけど。院生予算で買えないようなものは、先生に言えばかなり予算を割いてくれた。そういうところから学問ははじまるわけだし、卒論や修論などと関わらせて、図書を検索充実するというようなシステムを標準化して、図書館を充実して行くことは重要だろう。
 と言いつつも、岡大の頃は私はいわゆるサブカル本の類を、図書館予算で購入し、今でも入っている思う。誰が買ったか名前が書いてある。一生恥は残るとも言えるが、かならずしも恥とも思わない。資料なら、そういう本があっても(・∀・)イイ!!じゃないか。たとえそれが『VOW』だとか、『お笑い北朝鮮』でも。だけど、そんなこというと、ハリポタだって、十分時代の風俗で、図書資料に貴賤はないということを言う人がいるのかも知れない。
 面白かったのは今はなき小平キャンパスの教養部図書館は、ものすげぇ本の揃え方だったのを思い出す。たとえば、私たちの頃なんかも、偉いさんの書いた本がずらーーーっとならんでいたのだ。たとえば、上原専ろくの『歴史的省察の新対象』なんかは、百冊くらいならんでいた。亀井孝『日本語系統論・・・』なんかも、それほどじゃないにしても、すごいならんでいた。たぶんテキストになった本を、図書館で買いそろえ、利用者に提供していたのだと思うけど、100冊くらいあったということも驚きならば、専門家もビビルような本がテキストになっていたということも、ぶっ飛ぶと思う。当時の講義のレベルは、どこの大学もかなり高いものであったことはたしかだと思う。まあしかし、出てなかったことも事実。のぞいてみるかと行ったら5人なんてことはざらだった。ちなみに図書館もすいていた。閉館までいるのは、数人だった。
 岡大も今の勤務校もそうなのだが、文学部系の学部がある大学に勤めることの良さは、文芸書が鬼のようにあるということだ。貴重書、奇書・珍書の類もいろいろとある。そうかと思えば、理系の人は本なんかは消耗品、古い本なんて意味がないという。また研究者によっては雑誌が揃っていることが大事という人もいる。そういういろいろな識見を知るということのなかに、位置づけられるように図書館が位置づけられていることが何より重要だと思う。それとも、なりふり構わず学生をともかく本好きにすることが必要な段階に来ているのだろうか。