本の装丁について

 雑誌『Pen(ペン)』の特集「『これいいなあ』と手がのびる美しいブック・デザイン」。言わずとしれたフィガロな阪急コミュニケーションズ。あんたなんかになんの関係があるんだYO!とかゆわれそうだけどさ、不覚にも次のコピーにくらくらときてしまいますた。「そうだ!今日は145冊の本と楽しくすごそう」。本はアートなオブジェと化す。いいのかなぁこれでと、正直思うけど、これはこれで楽しい。まあしかし、絵本にしたところで、大枚叩いて買って傍らに置きたいとは思わなかった。いくら装丁が美しくても、さっくりひらかない本じゃしょうがない。そして向学心をワクワクさせるというか。そういうものだろう。
 前に言ったかもしれないけど、私は『POD』の特別革装丁のものに、長いこと憧れていた。学部の頃ミルズの『社会学的想像力』の読書会をしていたときに、参加者の一人が持っていたものである。『POD』はむっくりしていて、ダッサァーというカンジだったが、これは紙も薄く、しかも上等。装丁は皮革装丁。スリムでハンディで軽い。語義も簡明でかつ語源などもしっかりしている。欲しいなぁと思った。しかし、家からの仕送りが一万円ちょいだったし、バイトで稼いでもギリギリで、教養の授業で買ったホンビーの『アドバンストラーナーズ』を使い続けた。留年した大学五年目に、この辞書だけを使ってミードの『精神・自我・社会』を何度も読んだことが、勉強の基礎体力をつくってくれたと思う。私は英語ができなかった。何度も言うが、クラスのほとんどが優だった授業で、二人だけ良だったウチの一人だった。院入試でも、『試験に出る英単語』の前半だけを覚えたというくらいである。まあそんな私でも、気合いで読み切った。今ならギデンズを読んだと思うけど。そんなときも、ことあるごとに『POD』欲しいなぁと思っていた。大学院合格後も、寮には入れなかったので生活費がきつく、あこがれの辞書は買えなかった。結局私ははじめての給料で、この辞書を買った。忘れもしない岡山の丸善。うれしかったっすよぉ。辞書が使いたいために、洋書を読んだくらいだもん。ということで、ゼミの椰子らへ。ワシは英語が読めルンヂャ。わかったか。ボケ!
  (;´Д`)ハァハァ。というところで、本の装丁だけど、やっぱ自分が書いている本の装丁は気になる。自分が関わった本の中では、『性というつくりごと』という本の装丁が一番いいのではないかと思っている。真っ白ななかに、五角形の真っ赤っか。でもって、本の題名が書いてあるという単純なものだが、とても(・∀・)イイ!!と思っている。かなりシンプルな装丁のものでも、装丁家の方はこだわりをもち、誠心誠意仕事をするみたいだ。世界思想社のHPには、そんな苦労がいろいろ紹介してあって楽しい。稲葉振一郎氏に指摘されて、はじめて気づいたのだが、ポスモダ全盛期に勁草書房のかっこよさげな本は、寺山祐策という装丁家がやっているということだ。このことは前に書いたかもしれない。忘れちゃったよ。まあそれで見てみたら、たしかにそうなんだな。なるほどと思った。上記『つくりごと』は、装丁家の名前は書いていないが、寺山氏の装丁だということを編集の人に聞いた。
 これも前に書いたかもしれないが、面白い装丁の本の話をしたい。大学のゼミの後輩が、前に『社会の窓』という本を出した。「なに考えているんだ」と言ったら、怒られた。かなり真面目に創った本みたいだ。偶然の一致だろう。本当に真面目で、実直な、そして優秀な奴の本だから、パンクな狙いは絶対なかったと断言できる。しかし、本の装丁は、劇パンクだ。本の真ん中に窓が開いている。そこからオットセイだか、ペンギンだか、あしかだか、忘れたけど、それ系の生き物が顔出しているんだね。これじゃさ、横山まさみちだよな。じっさい絵もそんなカンジ。わははははは。何度思い出しても笑える。たぶん会社も著者も大まじめだからよけい。ごめん。また言っちゃったよ。Sクン。