田村明子『知的な英語、好かれる英語』

 実はもう一冊本を買った。田村明子『知的な英語、好かれる英語』(NHK新書)である。「カジュアルな表現だけでは大人の会話は楽しめない」。国際化時代の大学でまかりなりにも教鞭をとる人間が、外国に行ったこともなく、昨日なんか「話せないけど読めるという人がいますが、私の場合読めもしませんからねぇ」などとうそぶいてしまうなど、国際的に発信する意欲があまりないことは、実は問題だとけっこう反省していないことはない。いずれは大学教員は、英語で授業しろなんて時代が来るかもしれない。多少なりともなにかできるようにしなければならないなぁと思わないといえばうそになる。そんな意味で、この本のコンセプトはけっこう重要なんじゃないかと思う。英語でかっこいいことを言えるようになるということは、モチベーションを高めてくれるように思うのだ。この本は、出てくる英語はさほど難しくはないのだけれど、けっこうさくさく読めた。
 と同時に、自分に足りないのは、人にわかってもらおうと思って、ものを書いているのだろうかということだ。「外国向け」のこともそうだけど、「日本向け」も、講義も、ブログも垂れ流しと、開き直っていることに問題があるんじゃないかと、反省した。実は修士論文を書き上げ、人生のなかでもっとも充実した気分であったときに、私はミルズの手稿類を閲覧したいと思い、ミルズの配偶者に手紙を書いた。「コピーを送ってくれないか、金は払う」と。そしたら、配偶者の方から返事が来た。「コピーするにはあまりにでかイ。資料を使って論文を書いているギラムという人がいる。彼にあなたのことは言った。相談しろ」と住所を教わった。ギラムはミルズの伝記研究では、第一人者とも言ってよい人で、私はこの人の修士論文コロンビア大学から入手して、修士論文を書いた。ギラムの修士論文は、水準のめちゃ高いもので、その引用文献を収集することから、私の修論研究は始まった。ミルズの手稿の存在もそれで知った。で、当然ながら??ギラムにも「資料のコピーがほしい」「ワシはあんたの修論を参考に修論を書いた」などと手紙に書き、さらに自分の修論の要約を英訳して送りつけた。もちろん要約はネイティブチェックはしていない。ひどい英語だったと想う。もちろん返事は来なかった。たぶんギラムは日本のテンパッたやつから手紙が来たとしか思わなかっただろう。一言先生方に相談していれば、私の人生もだいぶ変わっていたと思う。
 なんでこんな話をしたのかといえば、そういう馬鹿な英語を書いてでも自分の学問をギラムに伝えようとしたモチベーションがとても重要なことだと思うのだ。私はそのモチベーションを育てることなく、外国に行かずじまいになってしまった。ミルズよりもパーソンズやミードにひかれた。ミルズ研究をやっている自分に劣等感を感じ、それを増幅させるだけだった。もう少し知恵があれば、アメリ社会学思想史をしっかりとした歴史研究として、提起することもできたろうと思う。岡山に行き、高城和義先生の研究を目の当たりにする機会に恵まれたにもかかわらず、それを生かすこともできなかった。まだ遅くないのか、もう遅いのか。。。