「りこう」のキメと魔−−間の社会学10

 和田秀樹から向山洋一まで、チホーから超整理法まで、多湖輝から島田一男まで、いわゆるノウハウ本の類は、同業者には蛇蝎のように嫌われているものまで含めて、あらかた読みつくしているし、その著者の多くの確信犯的な覚悟には、敬意をもっておりますのでして、当然小論文の樋口裕一氏のものも、多くを読んでおります。で、まあ書名を見まして、おお!!この著者も馬鹿猿けもの系に進出カイナと思い、樋口裕一『頭がいい人、悪い人の話し方』をさっそく買ったわけです。ちなみに最近は新書が増えすぎて、新刊いちいちチェックしきれない。あーそいや、講談社新書の装丁が話題になって久しいけど、あれって元の装丁に近いかたちに戻ったカンジもするんですけどね。30年以上も私が高校くらいまでの装丁だけど。で、樋口氏の新書ですが、書いてあることはまああたりまえのことと言えば、あたりまえのことだけど、ツボをついた書き方で、なかなか読ませるものがあると思います。馬鹿な話し方があがっていて、対処法と、自覚法があがっているというのが、フォーマットなんだけど、まあムカツク例というか、ムカツク感情規則というか、そういうものが例解されているってかんじですね。
 これを買った人は、賢いことをしゃべれるようになりたいとか思っタカラという人も少なくないと思うし、かくいうアテクシもそのクチなんですけど、読んでいると、もうアドレナリン全開憎悪の化学炸裂ってかんじになるわけね。つまり嫌いな椰子が頭に浮かびますて、その椰子が嫌いだぁ〜〜ッテ感情を原動力にして、嫌いな椰子=馬鹿という物語をサクサク構築していくわけですよ。もう痛快原爆オナニーズってかんじでもって、しょーがねぇなぁとか思って、「対処法」を読むと、なんか癒される。自覚法をみると、けっこう自分はわかっていて、でも少し反省しておこうかなぁってかんじで、また癒される。どーしょうもねぇわな。でもって、はたと気づく。自分はどう読まれているんだろうかって。いやもうノイローゼになりそう・・・ッテ言いたいけど、そでもないんだな。これが。まあ誰でもシナボンとか、鶏卵素麺とか、ビルマのこーしーのように自分には甘いからね。 「馬鹿の作り方」、「りこうの作り方」。自分は安全。これ読んでさ、額にりこうって書いたみたいなカオで、おしゃべりしちゃったりするのって、『デート必勝法』とか、『女心のつかみ方』とか読んで、デートするみたいなもんでしょ。まあ、しょーがねぇーなぁとは思うよ。息子にチョコレートくれた進駐軍の米兵に土下座したたけしのおやじとか、ばあさまが危篤だってことで救急車呼んで救急隊員に一万円ずつチップ渡してすげぇ怒られたうちのおふくろとか。もうしょーがねぇ。馬鹿だよね。まあでもそういうのって、自分を安全な位置に置いて、頭イイと思っている奴よりは好きだね。善悪、真偽とかの問題じゃなく、好き嫌いだよ。
 しかしだからといって、韜晦的に悦に入って、一生懸命にりこうの証明しまくっている人を馬鹿だというのも馬鹿だし、しょーがねーんじゃないのかなと思う。ただね、「りこうのキメ」っていうのがあって、まあ「どんなもんだい!!」ッテところだけど、どんなにさりげなくしていても、そういうキメ=馬鹿面を人は意地悪くみているからね。困ったもんだわな。なんか言うとたちまちよってたかって、茶化される。
 でも世の中には、得体の知れない「魔/間」を持っている人がいて、「りこう」で圧倒してしまったりするのね。「キメ」をどういう不安定な状態におくかというのが、芸だと思うけど、まあ聡明な魔をもっている本や人ってありますわな。押さえて含みをもたせるか、あるいはあえて全面展開してしまうか。あるいは黙るか。昔、寡黙な人は聡明だと思っていた。ある寡黙な友人が「しゃべることないから黙っているだけ」と言ったのを思い出す。樋口氏の本は、とてもよく書けていると思うけど、そういう屈折はない。しかし、そこには受験界という馬路に必死な世界と関わってきた人独特の誠実があるように思った。樋口氏は黙らない。そしてわかりやすく、人が成長できるようにものを言っている。