生ましめんかな

 今回の地震で一番残念だったのは、今回の地震について、CIAだとか、北の将軍様だとかが、秘密兵器でアタックアタックしたからだと、ファナティックに絶叫するカルトやてんぱったウヨがおらんことだと言うと、あまりに不謹慎であるのはわかっているが、ついついそういうことを考えてしまう私がいる。忙しくてあまりテレビを見ていないのだが、蓮池さんにインタビューしに行ったメディアがいるんだろうか。やったらさすがに視聴者から抗議が来るだろうね。
 地震の被害は、死者23人、負傷者2190人(新潟県など調べ)。数字はともかくとして、すむ場所がぶっ壊れたとかいう人や、道やなにかがズタズタになっているとか、精神的なショックは、計り知れない。こういう時に明るいニュースを報道するのは、メディアの必須パフォーマンスだろう。人間を勇気づける最大のものの一つ=新しい生命の誕生ということが、私たちの感情規則であることは、否定できない。

 地震震源地となった新潟県小千谷市で、地震発生直後に2人の新生児が生まれていた。次々と負傷者が運び込まれる病院に、産声をあげた小さな命。母子ともに健康で、「災害をはね飛ばし、元気に育ってほしい」と周囲の願いを集めている。(毎日新聞

 理屈抜きに(・∀・)イイ!!などと言うと、ねるとん紅鯨団のように「待った!!」とお叱りをうけるような気もするけど、かるいタッチでいいニュースであると思う。この手のもので一番スゴイのは、なんといっても藤原貞子の「生ましめんかな」。「産ましめんかな」じゃないところがスゴイと思う。岡山で、吉永小百合の朗読を聴いたときは、なんとも言えない気持ちになった。ガキの頃は、こういう作品を提示されて、感想を求められると、「バカじゃねぇ」とかわめいたり、泣いている先生がいると「泣いてやがんの、みっともねー」とか、ムキになって大騒ぎしたものだが、岡山で聴いたときはさすがにやばかった。せめてもの抵抗は、ビクターから出ている吉永小百合の「第二楽章」を買わないことかもしれない。買ったけどね。すり切れるほど聴いてはいないけどさ。

こわれたビルデイングの地下室の夜であった。
原子爆弾の負傷者たちは
ローソク一本ない暗い地下室を
うずめていっぱいだった。
生まぐさい血の臭い、死臭、汗くさい人いきれ、うめき声
その中から不思議な声がきこえて来た
「赤ん坊が生まれる」と云うのだ。
この地獄のような地下室で今、若い女
産気づいているのだ。

マッチ一本ないくらがりでどうしたらいいのだろう。
人々は自分の痛みを忘れて気づかった。
と、「私が産婆です、私が生ませましょう」と云ったのは
さっきまでうめいていた重傷者だ。
かくてくらがりの地獄の底で新しい生命は生まれた。
かくてあかつきをまたず産婆は血まみれのまま死んだ
生ましめんかな
生ましめんかな
我が命捨つとも

 この詩は、けっして反米的ではなく、人類普遍の平和を尊重する気迫に満ちあふれています。しかし、チェチェンイラクアフガニスタンやアフリカでは、さまざまな、それぞれの「生ましめんかな」ができているのではないでしょうか。カンボジアでは、少年や乳幼児まで殺戮されたと言います。それは、全世界的に見るとめずらしいことではないのかもしれません。この詩を外国の友人に見せたら、「日本人呑気ね」と言いながら、詩の最後に「そこに外国の兵隊がやって来て新しい生命を扼殺した」と書き加えました。
 ・・・・・・・・・・・・・・というのは真っ赤なウソです。