書架と書庫について

 9月より、火曜社会学史、水曜院のサブゼミ、木曜概論、金曜短大と、早起きな日が続き、もうぐったりでして、土日はボロぞうきんのように眠ります。今日も熟睡して、起きたら昼でした。昨日特におそく寝たわけでもないのに。文化社会学、学史、概論、短大と4種類のプリント、ゼミの準備と、けっこう忙しいですが、学問的生産力はかえってアップしているから不思議なものです。テンションが高まると、本がピシッと理解の網にひっかかってくるのですね。ブログも、運動で言う、アップとダウンみたいなカンジで、けっこう有効であると思われます。書架と、CDラックなんかをぼんやりながめているとけっこうネタも浮かんでくるし。ただ、忙しくなってくると、実を結びそうなネタは少なくなります。勢いで書かないと、ネタは腐ってきて、やる気が失せます。
 しかし、書庫や書架は、読書人や研究者にとって、至上の楽しみのひとつではないでしょうか。学部時代大学院生としていた方々は、大学院生なのに書庫を持っているらしいという伝説の人物(たしか最近は若者論などをやられている中西新太郎氏など)もいて、またあらゆる書物に読書ノートが貼り付けてあるという先輩もいて、少ない本を積んでおくだけの自分が情けなくなりました。そんな私でも、当時呉智英によって「チホー」と茶化された『知的生活の方法』を、尻馬に乗って、バッカじゃないとか言っていたわけですが、そこに書かれていることは、実はけっこううらやましく思ったりもしたのでした。つまり、家に書庫をつくるというような話です。これは一部知識人の怒りを買いましたが、今考えてみると渡辺昇一氏の思想にはまったく賛成できないところもありますが、空を飛翔する「ワシ型人間になれ」などという言説の妙味、興趣とともに、書庫の作り方を実用的に書いちゃったことは、面白かったのではなどと思っています。書庫で悦に入る、自分の書架のラインアップをみてジーンとくるなんて趣味は、みんなあって、誰も言わないけど、文具だ、書架だ、家具だと、デラックスな貴族趣味の人はけっこういて、それをハウツーで書かれたから、チョーむかついた面もあったのではないかと思うわけです。
 などというと、スゴイ書架や書庫を持っていると思うかもしれませんが、実は学生時代は生協で売っている安売りの書架で、勤めてからは大学標準のスチールの書架。家は、岡山時代は書架は文庫だな程度で、今は少しスペースが狭くなったので、西友オリジナルのスライド式が三本と、スチールがひとつ、文庫だな少々といった程度です。書架はすべてダイニングキッチンと廊下においてあり、そこが書庫というカンジになっています。同年齢の同業者に比べると非常に少ないのではないかと思います。書物についても、文庫本や新書が圧倒的に多く、あとはコピーを製本したものが多いです。洋書は、ミルズ、ミードとその周辺はけっこう揃ってますが、たいしたことはなく、相互作用論などは、すべてコピー。丸善のカタログも、アマゾンを利用しだしてから、あまり見なくなりました。しかも、日本のアマゾンで洋書検索しても漏れがあると知ったのは最近で、そういう面ではかなりやけくそ気味です。きれいにレビューして、論をその上にのっけるというような論考の生産が少なくなってきたことは反省しなければと思っています。
 「教養部的なもの」を正当性根拠にして、少々ラフな、腕っ節勝負なものを書いてもイイ立場ではなくなってしまっているわけですし。