水俣病最高裁判所判決に驚く

 昼食を食べにそば屋に行き、新聞を見ようと思ったら、一面トップで水俣病の判決が出たことが書いてあった。国や県の「放置プレー」を批判し、賠償責任を認めた判決は、私のような者にも訴えかけるものがあった。『朝日新聞』には、宇井純の談話が載っていた。私は、いろいろ考えあぐねたあげく、体験学校に行ったりとかはしないことを決心したわけだし、知ったようなことを語る資格などないわけで、沈黙を守るべきなのだろうとも思うけど、被害者といっしょに官庁前に座り込んだ側と、官庁のなかでなにかをすることを決心した側の、−−環境問題サークルの卒業生コンパにおける−−胸ぐらつかみ合った言い合いを目の当たりにしたことなどを思い出し、双方にあらためて敬意を表したいと思うのである。
 なぜやめたのかということをきかれることもあるが、それは単純な話で、どう考えても自分にはアカデミックなものへの愛着があり、「環境ゴロ」「調査ゴロ」などと呼ばれていたようなことになることは、明らかだったと思ったからだ。「あっち側」に行った人は、そんなことはどーでもよかったんだと思う。水俣映画の上映会をやったとき、主催者の一人が「学問の言葉よりは、ギターを弾いた方が伝わる」と言った。自分は、そういうことを学問的に論じることはできても、今さらギターの練習をしたくはないと思った。宇井さんや、見田宗介氏、栗原彬氏、鶴見和子氏、色川大吉氏など、調査団を形成してゆき、石牟礼道子氏の著作集がらみで、論考を寄せている人々は、そこそこ学問を修めた上で、そういう方向に向かっていた。学生だとそれができない。両方できるほどの学力は、残念ながら私にはなかった。
 一応のオトシマエをつけたのは、修士論文の面接である。普通は30分くらいで終わるのだが、私の面接は1時間半以上かかった。プレゼンに40分近くかかり、そこでミルズを研究することの意味を、ダラダラ延々と語った。まず最初にユージン・スミスの撮った胎児性水俣病の少女の写真の話をし、その存在にとっての「生の意味」というものを執拗に話した覚えがある。実存主義と言われた思想の限界状況論、ヤスパースにおける実存開明思想などを経過し、そこにミルズの「よりどころのない立場」論、社会問題論、「社会問題は被害者に学べ」論などを支離滅裂に結びあわせ、寺田寅彦「天災と国防」論における「戦争の昇華」「敵の止揚としての社会問題という敵」という読みかえ等々を、ムキになって話した。そんなことを言って、落ちてもイイとは思わなかった。審査員の佐藤毅氏、油井大三郎氏、浜谷正晴氏は、黙って聞いてくれた。すこしうれしくなって、研究室に帰り、後藤隆氏にこのことを話したら、後藤氏に言われた辛辣な一言は、大変な打撃と励ましを与えてくれた。「患者さんはさ、世界平和の担い手なんかになりたくはないんじゃないか?なおして欲しいんじゃないか?」。当時は激辛の一言だと思ったが、ポストモダン思想、さらにはボルツなどを読みながら、いま振り返ってみると、私の議論の醜悪な欠点をつき、打開の方向を示してくれている。洞察力には、頭を下げるしかない。
 裁判結果を見て、そんな胸焼けのするような日々を思い出した。