今どきの授業のむずかしさ−−どうすりゃいいの?

 今日は1時間目から、社会学概論。前期成績が悪くて、コース分けやばそうな椰子らが、前の方で熱心に聞いていた。なんかやっぱ悪いものは悪いとして、ビシビシ鍛え上げた方が、本人のためなのかなぁって思う。つい耳障りのいいことを言ってしまう。大学院受験を目指した英文購読など、本気のゼミで一緒に勉強した連中には、一切遠慮なく、ズケズケものを言ってきた。そして、「絶対その方がイイ」と言われている。たぶんそうなんだろうと思う。しかし、id:sosu さんのブログにあったような、最初の授業で「やる気ないっす」みたいにゆってしまう語りに萌えてしまう部分は、消し去れない。それはともかくとして、話したのは「構造と機能」の章。半分くらい話しているうちに時間が終わってしまった。
 人類学において機能主義が生まれたッテ話は、何度話しても玄妙だ。授業で話しながら、思考というか、理論的な妄想みたいなものが、ムクムクと膨らんだ。パークは『都市』の冒頭で、人類学の方法を都市社会に応用できるとゆっている。もちろん時代的な前後関係も無視な妄想。ラドクリフブラウンもマリノフスキーもへったくれもないだろうけど、結局その辺の考え方から、構造機能主義が生まれ、構築主義だなんだと言っても、議論を突き詰めると、ぜ〜んぶマルクス主義の言う「主観的観念論」に立った動員論ってことじゃないかと思った。「動員」と断言してみることで、説明は楽になる。人類学は植民地科学。社会学は移民や貧困者やあるいは選良の動員科学。もちろん、だから無意味だっていうんじゃない。だって、左翼やリバタリアンがなにかを論じるのも動員・・・。もちろん動員するのも動員。どんなものだって「役に立つ」。その発想自体はいいんだと思う。でもってそれからダメなのは・・・まあ原理論的には意味のない話だけど、テキストはけっこう上手く説明できる。例もいろいろ思い浮かぶ。
 授業の説明では、もちろん「動員」という言葉は使っていない。話す衝動の方向としては、時代的にバラバラのものを整理してみたいということが一つ。クソも味噌もいっしょにしているような乱暴な議論を、キチッと整理してみたいちうのがひとつ。いろんな飛躍を埋めてみたいというのが一つ。逝く道逝けば、もしかすると−−トリビア的な意味での−−「論文の種」がなにか見つかるかもしれない。だけど、学生としては、思考の暴走よりも、テキストの逐一を丁寧に、ゆっくりと、例をいろいろ使いながら、説明して欲しいだろう。そこに徹すると、まちがいなく思考の飛躍はなくなる。執筆になんの役にも立たない授業になる。しかし学生の満足度は高くなる。
 問題はレッスンをしてどうしたいのかということだ。ゼミ選択を前にした学生の質問。資格はとれるか。就職に有利なのは。楽しいのは。タフマインデッドにそこに学問の種を見つけなければならないのだろう。などと考えているうちに、思ったこと。イイ教育をしているなぁと思う先生に共通することがあると思う。それは、取り組んでいる問題なり、自分が修得した学問なりに<愛>があること。レッスンすべきミニマムの標準化された学ぶべきことがあること。
 思い出した。イデオロギーに関係なく尊敬を集めていた永原慶二先生の講義。講義内容は経済史の基礎概念解説。奇を衒うことなく、重要概念を説明して行く。歴史の見方などを交えて。あたりめぇだけど、勉強しているから見通しがきいている。論争や学説も紹介する。非常に明快。1時間目なのに寮の怠惰な連中も、早起きしたり、寝るのを遅くしたりして、イイ席をとるために争った。課題はレポート。日本中世史の本を読んで、講義された概念を運用して論じる。寮の同室の椰子は、ウクラードという概念を中世史分析のために修正して用いて、立派なレポートを書いた。いまだにあのレポートと講義は強烈な印象になって残っている。
 ということになると、社会学の概念を使ってなにかを分析してみろというレポート。社会学史の講義でこれをやったことはある。社会学史的な識見の理解をクローズアップするような概念理解を示し、概念修正をすることで、なんらかの事例分析をしてみなさい。事典でアノミーとかの定義を丸写しにして、そのあとまったく関係ない事例分析を長々と書いたのが8割近い。しかし、概論はもっとやりやすいかもしれない。