パフォーマティブか?コンスタティブか?

 短大の講義に行った。「早く終われ」とことあるごとにヤジを飛ばす一群がいる。荒んだささくれだった空気が漂った。「無駄話をする時間があったら早く終われ」。この手合いははじめてで、とりあえず「早く終わる努力をするつもりはない」と一喝した。が、まあなにかメッセージのある人なのか。なにもなければ、黙って帰ればいいのだから。イチビってるだけかもしれないけどね。帰って、非常勤のための書類づくりをした。全業績に要約をつけ、業績の現物も提出する。最初は要約をつけるのはめんどくさいと思ったが、やっているうちにけっこう面白くなり、予想より早く終わった。終わった感想。「これじゃ設置審なんか通らないなぁ・・・、外れたのは幸運」ってこと。寿司を食べたくなり早めに帰宅。そのあと本当に久しぶりにパチンコをやったが、またすった。
 本屋とCDショップをひやかして、帰宅し、花野裕康氏にメイルをした。書評で原稿に言及させていただいたので、入稿した原稿をお見せしようと思ったのである。本当は執筆過程で、相談しようと思ったのだが、社会病理学会他でお忙しいと思い、控えていた。しかし、返事をいただいて、相談するのだったと思った。花野氏のおっしゃることは非常に明快に争点を示すものだった。これを本文に入れるべきだったのかもしれない。ただそう思うのは、素人な私の戯言で、専門家スジでは再三再四議論を重ねて来たことなのだろうとも思った。実際花野氏は、メイルで、馬場靖雄氏とは研究会などで禿げしく議論しているなどとおっしゃっていたし。そういう熱気の少しでも吸い込んで、なにかを言い、学問的な刺激を受けたいとも思うけれど、私は、ヲタやファンとともに、「みやだいさんりろんもやって」とさえゆえばよかったのかなぁとも思う。
 メイルを引用すればいいが、それはマナーに反すると指摘されたので、パラフレーズしてゆく。花野氏の不満は、次のような機能主義マニフェストにあるのだと言う。すなわち、真理の追究でもない、積み上げ型中範囲の理論でもない、「相互言及の網によって相対的に全体性へと接近する」という宣言。これについては、馬場氏から「いつも仰っています」ということ。「けど、私にはそれが不満なんです」。なんか、再三繰り返された熱いやりとりが彷彿とされますね。で、花野氏が、馬場氏や、宮台氏のマニフェストのなにが不満かと言えば、「全体性はパフォーマティブに実現される」という物言いは「コンスタティブなものじゃないっすか?」ちうことらしいっす。でもって、花野氏は、その点を衝きつつ新たな議論構築をめざしているということであります。そういう理論構築に役に立つのがペギオー氏であるということであります。
 論理的意匠の問題、認識論的、方法論的な問題でだけであるとすれば、さして関心はそそられないのですが、ことは存在論のレベルで主張されていて、「社会性」の問題として興味がそそられるというのが第一点です。まあこれは、みんな同じようなことを考えているのではないかと思われます。第二に、私はずっとミードをヨンできたので(こう変換されてしまうのには笑いますた)、その絡みでなにかないのかなぁと思うわけです。いずれにしても、その辺の議論はブルーバックスを読むようにしか関われませんが・・・。