佐伯一麦と職人性−−若者論によせて

 今の教育は、建前としては100%がとりあえず東京大学などのトップ校を目指して競走を始め、その実はどんどんオチこぼれるみたいなところがあるんじゃないかと、かねてより思ってきた。100%の立身出世という建前により、勝ち組のパターンが非常に画一化され、多くの人が誇りを持てない状態にあるというのは、とても悲しいことであると思う。お前は大学院まで出ているくせにという批判は覚悟の上だけど、こんな人生よりも、たとえば小学校もろくに出ていないで、名前のない左官だったぢいさんの人生はとてもにぎやかな家族に囲まれて、なかなかいけてたんじゃないかと思うわけなのだ。頑固一徹というと紋切り型がすぎるだろうけど、ウデ自慢の頑固者。気に入らなければ、総理大臣が来ようが、県知事が来ようが、仕事はしなかったような人だ。「自分も左官になるはずだった。宮大工とか」と職場で口を滑らしたら、同僚の先生に「やっぱり上昇志向だったのね」とからかわれた。恐ろしいまでにわれわれには染み付いているものがある。
 弟はエンジニアだけど、子供は職人にしたいなどと言っている。腕一本で稼げること、手に職があることの大事さを弟も知っているのだと思う。苦労していい学歴を得たとしても、会社づとめをし、滅私奉公した挙句が、リストラの恐怖におびえて生きなくてはいけない。そんなくらいなら、職人を目指すことも視野に入れていれば、生きやすいだろう。弟は機械設計の技師で、資格もあって、手に職があるはずなんだけど、それでもそう思うのが、なかなか興味深いところである。まあしかし、そういうことが言えるのは、大学まで出た人間ならではなのかもしれない。絶望的なまでに傷ついていたり、あるいは無気力になっている青年をみかけることがある。
 問題は、競争から否応なくこぼれる部分が、−−個性や能力に応じた選択肢がしめされ、きめ細かく人材配分されることなく−−乱暴に落ちこぼされてしまうことである。バブル後に残されたのは、強者選別の競争原理と、こぼれた者たちの、文字通りの意味での「やり場のない」衝動であった。おまけに日本の社会は、アメリカをはじめとする競争原理の国々と異なり、やり直しという希望をもちにくい。しかし、「選別動員の文化装置」と「総動員の文化装置」の奇妙な融和によって切り捨てられている場所に、新しい価値意識が、踏みにじられながらも、勁く芽吹いているように思うこともある。
 東京の街にはライブハウスやスタジオなどが多く、バンドの若者が大勢いる。そういう若者は、コンビニなどでアルバイトをしている。筆者がよく行くコンビニには、まんまでステージに立てるような、金髪の頭をおったてた若者や、腕や胸元から全身タトゥーがみえるような若者が働いている。接客は丁寧で、食べ物や石けん類などは別の袋にしてくれるし、ぬれやすいものはビニールに包み、重いものから順番に入れ、パンなどがつぶれないようにしてくれる。待ち客を上手く誘導して、混まないように配慮している。順番待ちの買い物かごを見て、量をチェックし、適当な袋を用意している。そして、最後に袋のとってをくるくると巻いて、荷物がこぼれないようにしている。快適なパフォーマンスだ。
 居酒屋やファミレス、建物の清掃や工事現場など、いろいろなところで同様の仕事ぶりをする若者に出会った。そして、そのたびに佐伯一麦の『ア・ルースボーイ』を思い出した。ア・ルースということばには、「しまりのない」という意味と、「解き放たれた」意味が含まれているようだ。エリートコースからドロップアウトした主人公が、いろいろなしがらみから自立してゆく。新聞配達のアルバイトや電気工という仕事のつらさや喜びが丁寧に描かれる。新聞配達という仕事を一つとっても、一軒一軒の住民を熟知すれば、新聞を入れる場所、高さなども違ってくる。工夫を凝らし、住民の顔を一人一人思い浮かべながら、新聞を配る主人公の充実は、その気負いのようなものまで含めて、清冽である。
 「あの四角いのが空調ダクトだろう、太いパイプが、水道の揚水管。こっちのが、排水管、それからあれが火災報知器の空気管、それとガス管」という電気工の親方がする仕事の説明に目を輝かせるア・ルースボーイの誇りは、ヴェブレンのいう「製作本能」(workmanship)や「職人性」(craftsmanship)と通底するものがあると思う。小説のラストは、卒業式をやっている天井裏で、主人公が電気工の仕事をするシーンである。彼は、同級生の卒業にあたたかなまなざしをそそぐ。この進路を否定するわけではない。彼が反発したのは、おおざっぱで画一的な動員ゲームの体制だ。しかし、彼は寛容に赦す。やがて彼は私小説の作家となった。
 佐伯の新作は、職人を描いたものとして、そして地方都市の情景を描いたものとして、読むのが楽しみである。長いので、もちろん十分には読んでいない。しかし、めくってみると、この作家の衒いのないひたむきさが伝わってくる。帯より。

より自分らしい、もうひとつの生き方を求めて
会社を辞めて草木染の道へ
柊子の修行の日々と恋の予感
東北の地方都市でくりひろげられる、ひたむきな日常を精緻な文体で紡ぐ。

 これ読んだだけで、げ〜〜〜って言う人は、けっこういるんじゃないかと思う。そしてラストの数行を読む。さらにげ〜〜〜〜ってカンジかな。しかも、けっこうしゃれたエッセイなんかを、書いちゃったりもしていると、さらに誤解は深まるのかもしれない。気取りだとか、見栄だとかを捨てて、何を読んで一番幸福な気持ちになれるかと言えば、私は衒いなく佐伯の作品だと言ってみたい気分なのである。