南博『間の研究−−日本人の美的表現』−−間の社会学7

 朝、横浜を出て、大学へ。講義の準備などをすませて、ボーっとしているうちに授業時間となる。教室に行って、先週の沖和をわび、久々の文化社会学授業。雑談っぽい入りをしたら、ざわついているが、内容に入ったらピシッと黙った。後期は社会心理史で、書評対象本でも引用されていた、見田宗介の「理想、夢、虚構」を利用しながら、総論的な話をする。しかし、見田氏の本の最初の題名は『白いお城と花咲く野原』じゃなかったっけ?スゴイ題名だと思ったけど、短い論考をならべてあって、私のような「ザッピング脳」には心地よいし、「青物の魚は足が速い」というような話や、村上泰亮の大衆論批判など、見田氏のいろいろな個性があらわれている本である。授業後、部屋に帰りボーっと手に取ったのが、南博の『間の研究』である。この本は、「いき、いなせ、間」を扱った『現代のエスプリ』の特集号よりも、生活の間、芸術の間にわけて、体系的・網羅的に間についての論考を編集している。南氏は総論部を執筆している。
 南氏の主張は三点である。まず第一に、間は日本人に独特の文化であるということ。この社会心理史的な発生を、南氏は自著『日本人の心理』(岩波新書)の「不足主義」「充足主義」という対立概念を使って説明しようとする。*1仏教が日本的に展開されることで、無常観とからまる「不足主義」が成立した。その代表がたとえば『徒然草』である。それは、芸術意識としての「余剰」「余韻」「余白」などの美を生んだ。それが、音楽や演技の間、武道の間拍子などと結びついた。それらが、宗教観念と分離することで、日本文化としての間、生活文化としての間が生まれた。
 こうした「不足主義」の文化に対して、ゴリゴリの合理主義の「理詰め」で、間を埋めてしまうのが、西欧文化の「充足主義」だという。以心伝心も、あうんも、めし・ふろ・ねるも、オイもなにもかも、そこではへったくれもない。毎朝「あいらぶU」でブチュ〜ットする文化であり、論理的に相手をくどく文化である。ッテほんまかいな?西欧流は西欧流でそれなりの駆け引きはあるぢゃん、とか思いつつも、押しの一手の理詰めなのかしら。無粋だわ。なんつってね。「言葉にすればウソに染まる」。まあしかし、抱きしめる「理詰め」もあるかもね。学会の議論みたいに、早口で理詰めに言葉を浴びせるとか、濃厚な論理的な恋文を書くとか。「故に君を愛す。Q.E.D.」なんつったりして。
 第二に、日本人の生活意識のなかで、対人関係、心理的な距離が、関係調整において重要であったということ。位置どり、距離のおきかた、そういった場合の「間」は、「程(ほど)」という言葉であらわされたそうな。「程がよい」というのは、「間がよい」ということになるのである。
 でもって、第三に時代の変化で、「間の文化」はどうかわるか。世代を超えて引き継がれてゆくかという問題。これは日本人の人間関係がかわればかわってゆくというのが、南氏の解釈。生活近代化の宿命として、「理詰め」になり、間を詰めてしまうことも多くなり、間も程もなくなって逝くかもしれないということ。ただ、南氏は、宗教的な間と結びついた、スポーツや芸術の間は、非日常的なものであるが故に、日常的な変化を超えて、一層のソフィスティケーションがなされるのではないかと言う。
 序論として、明確なスキームを読者に提示した論考ではあるが、南氏ならではのニートな分析になっている。しかし、疑問点が二つある。ひとつは、西欧の文化が理詰めと言いうるかということである。前にブログで紹介した、新井満の「引き算芸術」論が直ちに思い浮かぶ。新井の場合は、「引き算芸術」=日本文化という等値はせず、むしろ西欧文明のなかのキュービズムミニマリズムという思潮、そのコンテクストにあるサティに「引き算芸術」を代表させていた。さらには、オキーフの絵画なども、新井は同様の文脈で整理していた。こういうものまで含めて、「理詰め」と言っていいかどうかは、疑問である。武智の言う魔、欠落感、断崖、意表をつく、不意をつく、虚をつくといった境位と直ちに重ねるわけにはゆかぬのだろうが。
 これとは別にマクルーハンの「クール」という言葉も思い浮かぶ。こちらはあまり関係なさそうではあるものの、ザッピング、ワン切り、絵文字・・・若者のコミュニケーションなどを思い浮かべると、そこにおける「間」はどうなるのだと、疑問に思う。これが第二の疑問点である。ゲーム脳メール脳などの脳が違うサルだとかけものだとか言われて久しいわけだけど、まあそれはそれとしてそんな若者にも「間」があるんじゃないかと思うわけだ。そんなものは芸術や、スポーツの洗練された、凛とした間とは違うというだろうか。もしそんなことを言うなら、一方で、歌舞伎や、落語が論じられているというのは、おかしなことではないか。それらが、近代芸能として磨き上げられたことはわからないではない。芸の修行もあるだろう。でもいきなり「トリクルダウンされるもの」にされちゃっていいのかね。
 洗練された間の創出というのは、全面賛成。でも、生活の間は、それはそれであるだろう。特に最近の若者は、デートでマルクスの読書会溶かしていた世代とは違うんだぜ。ってなもんだろ。原稿用紙200枚のラブレター書いたって、出版助成うけた20000円もする本を贈って求愛したって、魔がさすことだってある。相互性において、それは愚劣にもほのぼのにもなる。規範や型の洗練は無用だと思わないが、そのいたずらな洗練ばかりを主張するのは、「理詰め」な立場ではないのか。

*1:大学受験の勉強で読んだなつかしい本である。読んでいたことが、合格の役に立った。モロ出たし。