『21世紀の現実』書評中間報告

 前にも言った辻泉さんに頼まれた『21世紀の現実』書評だが、ようやくメドがたってきた。この本の編者の一人宮台真司氏には、学会報告をしたときに、司会をいしていただき、そのとき名刺をいただいた。それを「どんなもんだい!!」と教室でみせびらかして自慢したら、受講者に2ちゃんねるに書かれてしまった。そんな私が宮台氏とそのゼミ生がつくった本の書評を書く。これは、言ってみれば、素朴で善良な(自分で言うところが(・∀・)イイ!!だろ w)街角の流しが、サブ北島軍団を語るようなものである。正直萎縮する。っつーか、なに書いても誰かしら底意地悪い目でみられるだろうしと自意識過剰気味になるのはやむを得ない。そういうおどおどくどくどを薬味にして読んでいただければ、貧しい行論もそれなりに興趣あるものになるのではないかしらなどと、開きなおってみたくもなる。書評の構成は

1.書評の方針の表明   =教科書ユーザーの立場から
2.宮台社会学の骨法   =終章について
3.宮台ゼミの骨法    =書物のタイトルと編集方針からよみとる
4.各章へのコメント   =前後に散らすか迷っている
5.「社会学の教えにくさ」 =教える立場からこの書物の特長を整理
6.理論社会学展開への期待=多くの人の気持ちを代弁 花野報告の紹介

 書けているのは、4以外全部。4が問題なんだよね。ちゃんと読まないと書けないし。というのは照れかくしで、だらだら一つずつ紹介するのでいいのかは、実に疑問に思ったりもした。一言ずつ書くよりは、前後に再構成しちゃおうかとも思うけど。それはともかく、ちょっと自信がないので、2までを公開してしまうことにしようかと。。。反則技かなぁ。ええい!!はっちまえ!!
1.はじめに
 (冒頭省略)本書では、宮台氏がブログで行っているような体系だった社会学講義がなされているわけではなく、社会的現実のいくつかの断面を示し、「宮台ゼミの骨法」、「宮台社会学の骨法」を示すかたちになっている。そういう意味で、本書は一種の社会学の入門=原論的な書物になっており、問題作『制服少女たちの選択』以降、宮台氏が関わった数多い書物のなかでユニークな位置を占めるものとなっている。
 編者の一人である宮台氏は、一方で「空白の10年」と言われた90年代から21世紀の今日に至るまでの歴史認識、他方で機能主義に基づく自らの社会学的立場を明快に総括している。自らの理論形成の来歴にまで言及し、フランクフルト学派と、広松渉ルーマン、そしておそらく、マッハ、フッサールポパーなどをも視野に入れた、手短な文献レビューを行い、理論的な貢献を終章で明示している。それは本書全体の理論的な貢献の主張ともなっている。もう一人の編者である鈴木弘輝氏は、最初に「宮台ゼミのガイドライン」を明快に整理し、社会学の教育テキストとしての貢献を主張するかたちになっている。宮台ファン、宮台ヲタと通称される人々のみならず、『権力の予期理論』以前を懐かしむ者にも、−−研究、教育両面で−−メッセージを含んだ本ではないかと思う。殴り書きだから、文章のてにをはがおかしいのは、このブログの常でござる。
2.「真理の言葉」と「機能の言葉」
 本書の論旨は、一言で言えば、「社会学は、真理の追究を止めて、機能分析の蓄積に転換せよ!」(辻泉氏メールより)ということになるように思われる。これは一方で科学方法論の問題である。現象の背後にある本質。そこにあるはずの真理を探究する。真理を説明する言葉が見つかったら、それを実体として因果関係を説明する。こんな方法を総括して、宮台氏は「真理の言葉」と呼んでいる。これに対し、そうした説明方法、本質や真理の探究を十分に断念し、現象的な関係性のみを問題にすべく、モデルをつくり、説明をし、限定的な問題を解決するプラグマティズムに徹することを、宮台氏は「機能の言葉」と呼んでいる。
 一見したところ、グランドセオリーに対して、中範囲の理論を提起したマートン的な聡明さと似ている面があるようにも思える。しかし、ピースミールな分析の積み重ねがやがて一般理論を結実するというようなマートン的な安易な期待は宮台氏にはない。むしろ部分の積み重ねという安直な議論において、「真理の言葉」の目的論を復活することが警戒される。「真理の言葉」の機能主義化では、問題は深刻化するだけである。この問題は、科学方法論のみならず、他方で現代人の現存在、21世紀のリアルの存在論、とりわけ「真理の言葉」を渇望する若者−−カルト宗教や少年犯罪−−の問題とかかわる。
 これはなかなかにやっかいな問題で、批判しようとしても、逆手にとろうとしても、ダメ。で、解決の意匠として注目されるのが、ルーマンの「社会学的啓蒙」である。それは身近な問題から普遍理念までを「機能の言葉」で表現することと同義であろう。すべての澱み、凝りなどを解きほぐすことと同義なのが、機能主義の徹底である。ここで、部分と全体という問題が切りわけられる。全体性志向=「真理の言葉」、部分志向=「機能の言葉」という等値は批判される。全体や非限定を断念すれば、あやしげな実体をふりかざす議論が回避できるわけではない。むしろ機能主義の徹底、「機能の言葉」の機能主義化により、全体性をめぐる議論は、神憑り的な実体論を回避できる。宮台氏は、次のように言っている。「『機能の言葉』は、『真理の言葉』的なカタルシスを放棄する代わりに、相互言及の網によって相対的に全体性への接近する」(p.239)。そしてこうした方法論は、「刹那的な若者」「身近を愛する若者」の存在論と表裏一体であることが、明らかにされている。
 こうした宮台真司氏の理論的な見地と、他の執筆者のそれとの異同はどうなるのだろうか。各章にならんでいる社会学理論は、聖俗遊の理論、人間関係の希薄化論と選択化論、子ども論、親子関係論、ルーマンの教育システム論、フーコーの性愛の理論、記憶論と社会構築主義、マンガシステム論、ネットワーク公共性論と様々である。しかし、いずれの議論も、本質論、実体論を回避し、現象的なファクトファインディングスの指摘、機能関係の分析を行っている点で共通する。そこに読み込まれるべきは、「機能の言葉」の機能主義化の意匠であり、相互言及の網による相対的な全体性への接近、還元すればそれぞれの社会学的啓蒙の実践であるように思われる。