教育の魔/間

 高校の恩師の還暦パーティがあるということで、横浜に戻ってきた。昔の思い出話が好きなわりには、同窓会的なものには背を向けて生きてきた。みんなが社会人としてバリバリ働いているときに、学生をまだやっていたし、なんかひけめをかんじていた。なんで今回出たかと言うと、案内状に「先生がお元気なうちに還暦のパーティをしておきたく」などと書いてあったからである。高校卒業のときに、この先生はポケットマネーで独和辞典を買い、受けもった学生全員にプレゼントしてくれた。現役合格の人間には合格おめでとう、捲土重来を目指す人間には卒業おめでとうと書き、思いついたドイツ語の詩句と日付署名を添えてくれた。ドイツ哲学を勉強し、大学院入試の準備をするときも常に座右にあった辞典である。その辞典を持って、パーティに出席した。
 会の進行は、各期一人ずつ思い出を語るかたちになっており、私の同期は一人もいなかったので、私が昔のことを話すことになった。最初に、「死にそうだみたいに書いてあるから、来ないともう会えないかと思ってきたけど、元気そのものピンピンしてんじゃん。どっちかと言うと、私の方がヤバインじゃねえかと思うんだけど」とかましたら、順調にウケたので、フリーズモード脱出。あとはすらすら話せた。辞書の話や、大学入試の時の話をした。「受かるわけねぇ」とか、アホ扱いされたことや、受かったと電話したら「落ちてショックなのはわかるがバカなウソをつくなよ。まあ気を取り直して頑張れ、ギャハハハハ」と言われたという、ホームページなどでも書いた話を言ったら、わりとウケますた。要するに、この話の先生なんです。ドイツの辞書の署名が、「卒業おめでとう」になっていたというネタかまそうかと思ったら、辞書持参しちゃったし、それはできずに終わりました。先生「俺ほんとにそんなこと言ったっけ?」ワシ「ごるぁあああ、オサーンもろ言ったやんけ」。あと、柔道三段の先生が、アマレス日本チャンプの体育教師を〆オトシたという話もした。オイここで〆てみろよとかゆおうと思ったけど、馬路やるといけないのでやめますた。猪木みたいに一人ずつビンタとかいおうと思ったけど、これも喜んでやりそうだからやめますた。
 この先生は、麻布高校から早稲田大学政治経済学部にすすみ、政治学専攻で大学院へすすんだ人である。英語ができないので大学をドイツ語受験したという人で、ドイツにも行き、ドイツ語にはいささか自信があったし、研究者として身を立てるひとつのアイデンティティがそこにあったのだと思う。今年還暦ということは、あのころ三十歳になるかならないか。どのようなお財布の状況で、辞書を買ってくれたか、想像に難くない。最後に先生が赤いちゃんちゃんこを着て、スピーチをした。一番印象に残ったのは、先生が、大学院入学後に、都立高校で3ヵ月の臨時アルバイト教員として働いた話だ。大学院の指導教員も、教えるのはいいことですと、薦めてくれたという。最初は3ヶ月のはずが一年になった。早朝から学生を集めて、まず早朝ボーリング、でもって学校に行き、放課後は放課後で大騒ぎ。一ヶ月の給料は、10日くらいでなくなったらしい。一年終わって、俺は教師に向いているかもしれないなと思ったという。「向いているかもしれないと思った」という一言が脳天に突き刺さった。間がよかったのか、悪かったのか。教員という生きがいの魔が、その高校にはあったのだと思う。そして、その先生はプロの高校教師になった。そのままを、私の母校で実践した。そして、今日のパーティーには150人以上の教え子が全国から集まった。
 この先生から何を学んだか、やっとわかったような気がした。こういうことだったのかと思った。芝居がかった言い方に聞こえるかもしれないけど、岡山大学でも女子大でも、私は同じようにやってきた。早朝ボーリングはしないけど、なんか学校でみんなでワイワイがやがややっているのが好きで、教師をやってきたのだと思う。私が、最初に教師をしたのは、東村山の桐門学苑という塾で、周りの中学の問題児が数多く来ていた。馬路やばいのもたくさんいた。コンビニでアイスおごってやったり、逆にそいつらからタバコたかったり、めちゃくちゃやってたけど、ある意味あれが一番楽しかったかもしれない。校内暴力、家庭内暴力の時代。しかし、今はそんな生易しいものではないらしい。サバティカルになったら、夜間高校とかで無給で教鞭をとってみたいということを、前々から考えている。情熱も経験も教育技術も足りない人間は迷惑なだけだということはわかっているのだが。*1

*1:英語教員免許もってます。オーラルアプローチで教育実習しました。ただし英語は苦手です。社会は、あと憲法と地理を八単位とれば免許とれるはずです。現代社会とかは得意分野です。ッて売り込んでどうするねん。