橋本治『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』をめぐって−−間の社会学4

 マンガにおける表現技術と「間」という問題について考えようと思って、いろいろ調べているうち気がついたことは、大塚英志呉智英といった先駆的な人々の作品に大きく影響を受けながら、意外や意外橋本治の『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』(河出文庫前編、後編)についてはあまり言及されておらず、またアマゾンで検索してみると該当商品ナシになる。エエエと思った。楽天はヒットする。OPなんだろうか。まあたしかに、マンガは、文学なんかと比べて足が速いし、仕方ないのかなぁと思うけど、研究書なんかでもこの本はスルーされたりしていて、ムムムムと思ったりもする。まあ、儀礼的無関心なのかもしれないけど。ミルズの『社会学的想像力』が品切れになっているのと同じくらい、にゃんともきゃんともだと思う。こっちは、鈴木広訳を岩波文庫に入れる社会運動起こしたいくらいだ。「関心空間」というサイトの解説を引用しておく。

花咲く乙女たちのキンピラゴボウ
 本業は小説家といいながらほとんど評論家としかみえない橋本治出世作。従来のマンガ論が少女マンガを対象としていないことを指摘しながら、1979年に少女マンガ論を書いてみせたが、いまだにこれに匹敵するような少女マンガ論は出現していない。少女マンガにおけるニューウェーブの元祖といえる倉多江美(キンピラゴボウは倉多江美の描くキャラクターの脚のことだろう)にはじまり大島弓子でしめくくる(表紙は大島弓子)この作家論集は、当時を代表する作家として萩尾望都山岸涼子はもちろんのこと、陸奥A子や江口寿史吾妻ひでおのような男性作家までを作家ごとに文体を変えながら鋭く論じており、当時のマンガ読みに大きな影響を与え、今でも尾を引いている。その後少年マンガ論として「熱血シュークリーム」を上巻まで出したあと急にマンガに興味を失ったらしいが、さべあのまがお気に入りで、表紙を書いてもらったりしている。

 私はそんなませてもいなかったというか、またガキの頃から女の子とばっかり遊んでいるタイプとか、お姉様たちに頭をなでられながら少女本読んで育ったとか、まあそういう久世光彦的な早熟とも無縁で、せいぜいがウメズカズオの『ヘビ女』とか『肉面』とかを級友に見せてもらいぎゃあぎゃあゆっていたくらいの者だったけど、この橋本的な感性は、当時かなりポピュラーなものになってゆき、フツーに『花とゆめ』を読んだりとか、あるいは少年マンガ誌で柳沢きみお翔んだカップル』が話題になって、少年マンガで恋愛がはらはらどきどき描かれるようになったとかゆうことがおこり、そういった現象の一端を私たちはになったとも言えるのです。その辺の感覚をもっとも前衛的に表現して見せたのが、橋本治だったように思います。
 上野千鶴子『文学を社会学する』(朝日文庫)冒頭にある「平成言文一致体」の話で、一つの焦点となっているのが、橋本治の桃尻語である。男言葉で必死に日記を書いた高野悦子なんかと比較してある。私は橋本訳『枕草子』って、そんなにすきっじゃないけど、まあああゆうことばで古典を訳して見せましたというのは、面白いし、言いたいこともよくわかる。その橋本の感性が、鋭くマンガをとらえているところが面白く、『花咲く乙女たち・・・』をみんな読んだ、。橋本の影響で編み物をはじめたりする人たちもあらわれた。
 私が一番印象に残っているのは、最初の倉多江美論だったと思うけど、線や空白の問題について論じていることだ。つまり、太い線とベタとスクリーントーンを重ねたような表現から、一筆書きっつーか、なんとも言えない間やリズムをもった線の調子とか、ぽかっと空いた空間だとか、そういうもので作品世界をつくるようになったという話が、強い印象となって残っている。これは、たとえばサティ、ケージなんかの話とも重なるだろう。また、サティやオキーフに影響を受けた作家新井満の『そこはかとなく』というエッセイ集とも重なるだろう。
 新井の話は、この本のそれよりも見田宗介現代社会の理論』(岩波新書)をNHKがテレビ番組にしたものに出演したときの話の方が面白いと思う。 音や絵の具を分厚く重ね音楽や絵画の大伽藍をつくる足し算芸術。そして、不要なものをどんどんとりさってゆく引き算芸術。この二つを対比し、後者のスタイルを産みだしたサティやオキーフを賞賛する。そして、自分がつくった環境ビデオはその典型、そして長野五輪の開会式もそうでしょ、ってああたがプロデュースしたんでしょ!ってことはともかくとして、見田宗介がそれに答えて、帰る森がなくなった小鳥たちが、なくなった森、つまりは不在の森に帰るみたいな話をしていたのも、面白かった。
 ケージはトラウマダヨなぁ。岡山大学時代、この話をしたら、環境音楽レポートということで、サウンドスケープをレポートにしてみますたとかゆって、白紙を十枚綴じたレポート出しやがって、仕方なく優をつけた話は、前にしたと思うけど、あれ思い出すし。しかし、そこで白紙と怒りん狭間に、魔が生じて、優をつけちゃったのかもしれない。でもって、オキーフとかサティーはどうなるかわけわかめえだけど、まあ東洋的なものに間を限定する必要もねぇかなって気はする。で、男論理の男言葉と、それをぶっこわした言文一致の桃尻語、でもって太い線と濃いベタの男マンガと、淡い線と空白の女マンガという図式は、愚劣なまでに単純と言えば言えないこともないけど、基本図式としてはよくわかるし、少女マンガが当時の私たちをとらえた魔性の基本構図も見えてくるような気もする。 もちろん、真っ白じゃマンガにならないわけだし、そこになんらかの字や線がくわわるわけだし、少年マンガの絵は、くっきりした輪郭のものが多いにしても、あだち充だとか、高橋留美子だとか、超人気マンガ家の絵を見ると、応分の工夫や才能があって、みごとな魔性をつくりだしていると思う。まるで落書きと言われた『東大一直線』の最初の奴も、間の凸凹がしっかりした作品性を作りあげているように思った。
 とまあ、二個ずつ議論するのは、なかなかサクサク快調なんだけど、これが組み合わさって多次元の分析をするという意味あいというのは、どうなるのだろうか。否定したいのじゃなく、それをするとどうなるか。まあ、どっちもコンサマトリーかもしれないけど。