時空の分節と間−−間の社会学3

 昨日奥野健男の人称構造論と書いた議論について、整理しておきたい。奥野は、『間の構造』の冒頭で、ほんの少しだけだが、これに言及している。奥野が紹介するのは、井上ひさし『私家版日本語文法』一冊である。
 論点は二つ。一つは、日本の指示代名詞の論理的整合性は、世界でもっとも論理的といわれるフランス語をはるかに凌駕するものであるという論点。すなわち、「これ、それ、あれ、どれ」「こっち、そっち、あっち、どっち」「この、その、あの、どの」・・・といった、いわゆる「コソアド」体系は、近称、中称、遠称、不定称は、音韻的にもみごとな論理性を持ち、日本の空間を完璧に分節しているということ。こいつは身内、あいつは他人、どいつは関心外。oioi完璧なら、そいつはどうなるんだとツッコミ入れたくなるけど、このへんの日本語の「間の感覚」は、五光輝雄『言葉から見た日本人』(自由現代社)読めってさ。
 もう一つの論点は、日本人の人称代名詞ほど非論理的なものはないということ。人称は簡単に転嫁するし、それぞれの人称の用語も無数にある。私、拙者、ワシ、アテクシ・・・。井上のスゴイのは、この二つの論点を重ねて次のような主旨のことを言っていることだと、奥野は華麗に歌舞く。

 井上は、人称代名詞の混乱や転化は、空間の場をコ・ソ・ア・ド体系で完璧に区分けしたため、その空間においていかに巧みにフレキシブルに人間関係を生かすかから生じた、と言っている。人間はいかにうちとそと、おもてとうらなど相手との関係を巧みに維持するか、つまり人と人との関係を、巧みな間(ま)として保持し、隔絶した間(あいだ)にしないため最大細心の努力を払い神経を使う、その間がうまくとれない人間は間抜けとなると落としている。

 ごるぁああ井上、いちびってんぢゃねぇよってなところだし、学問的な根拠がどのくらいあるかわけわかめな議論だけど、「ま」と「あいだ」のアンバランスな均衡に細やかな神経を使うというソフィストケートされたやりとりという議論は(・∀・)イイ!!。人称の流動とニートな距離感。それは武智鉄二の言う魔にもつながる。これは、ゴフマンのフレーム分析な議論や、むかし上野千鶴子氏が『週刊朝日』に書かれていた洗練された京都の文化というような議論とも重なる。つまり、うらおもてがあって、裏の本音を知るとほっと一息なイナカモノの文化が関東文化、これに対して裏と表をどのくらいの距離の案配でいっているか、その案配を読みとる洗練が京都の文化にはあると言う議論だったと思うけど、うらおもての可変性を指摘している。
 人称構造、コソアド構造、そして両者の関係。変換可能な構造的関係性。機能主義的流動性。・・・
 で、花野さんの人称帰属論批判ですが、一応考えたことを書く。昨日ブログに書いた話で言えば、AGILとか、詩的想像力の4元素、あるいは機能は書いてないけどケネス・バークのいう劇学の5つの鍵語みたいなもの=説明原理まがいのものを設定するのは、実体的本質と固定すること=原因論的な真実の探求とどこが違うのみたいなことと関わると思う。花野さんは、このへんに共通するものを感じて、論文を送ってくれたんじゃないのか。
 花野さんの議論。宮台氏の人称構造論は、一方で123人称単数複数という常識的な構造を前提にしている。他方でまた単位行為の扱いも概念的に一般化されていない。それを洗練するような、着想として花野氏は「帰属」という視点を提起し、より一般的な議論の地平を設定し、人称帰属論を人称的帰属と超人称的帰属という二点からきれいに整理している。その過程で、n数とx数といったアイディアをいろいろ導入して刺激的な議論を展開しているように思いますた。むしろこの着想の提示と例解に、著者の高い力量が表れているかもしれません。なぜ花野さんが、古典語まで勉強しているのか、その理由もわかりました。
 機能主義っつても、すべてバラバラちうなら、なにも言っていないのといっしょ。一定の関係構造を表現する論理がなにかが重要で、そこにその人の立場や理論が提示される。そこで、「帰責」を問題にし、「要素→要素の関係」「部分→全体」「個人→社会」といった創発的な方向=集計不能だけじゃなく、逆の方向の不可能=帰属不能を問題にしているというところは、機能主義的な流動化をはかる理論的な「へそ」の提示として面白い気がしました。あくまで気がしたんですよ。正直アテクシに理解できるようなたやすい論文じゃなく、もっと高度な内容が含まれているはずですから。花野論文は同氏のホムペにあるかどうかは不明。
 閑話休題。話は元に戻る。全体的な流動的な関係性を問題にすることの大切さ。だけど、二つずつ組み合わせるパーソンズ奥野健男。メタ次元のメタメタ話では、ダブルを問題にすることにはそれなりの意味があった。一回目の屈折再帰が問題。次元はどうなのかねぇ〜。厳密な議論を回避すれば、気合いな物言いが可能。一昨日紹介した、武智鉄二「間」の最後の部分。

 間は、エキゾティックなもの、異風なもの、淫声的なものへの、民族文化伝統に立つ反省として、成立した。リズムに乗ったり、きまったりすることのエキゾティズム(単なる異風文化というだけでなく、非現実的という意味でも異風な)への反省、っまたは反撥として、間の理念は、日本の芸のための、守らなければならない最高倫理規定、ノルムとなったのである。
 それはリズムを正常な生活感覚に戻し、写実性にひきもどす規範であった。
 だから、間は、精神からの使者であり、反面、観客の精神を、悦楽から現実へひきもどすための使者でもあった。
 それ(間)は、様式性の壁をつきやぶる真実の通し矢−−真実を白日下にさらすがゆえに魔でもあった。
 時間(拍子)を、演劇的な第四次元空間と考えるならば、間は、さらにその先の、生理が精神の断面に喰い込む“瞬間”であり、日本人だけが見つけだした“第五次元”の世界なのであった。

 う〜ん。(・∀・)イイ!!。日本人だけとか、倫理規定、ノルム、通し矢、魔・・・言いたい放題にしても。用語系がぶりゅんぶりゅんであったにしても。次元が比喩的な意味しか持たないにしても。なんともトホホな結末ですた。