森富子『森敦との対話』をめぐって

 今日はけっこう早く起き、読書をした後、また散歩に出て、一泳ぎして、かえってブログ。帰路、麒麟麦酒の「ぷはあ」というコピーをみる。暑い日はビールだよなぁ。酒を飲んでいたころ、グラスを凍らせて、飲んだものだよなぁ。キーンとちべたい生ビール。禿げしく「ぷはあ」とすると、んまかったわなぁ。以来これは癖となり、講義の感想文に「講義中、コーラをごきゅごきゅ美味しそうに飲むのはまあいいとしよう。しかし、ぷはぁ〜はやめて欲しいものである」なんてかかれたなぁなどと考え苦笑しますた。
 読書とは、昨日途中まで読んだ、『森敦との対話』。いったりきたり、調べたりしながら耽読しますた。心酔というのは、通常いやらしい部分があるものであるが、この本にはそれを感じない。こうした「心酔」もあるのかと感心した。さほどに著者の眼は、確かなものであるように思われた。というか、書いておかなければというような決意のようなものを感じた。森敦から学んだことや、エピソードが、安直に美化されることなく、向うッ気をもって書かれているように思った。森敦の天才を描いたことに依存することなく、著者の作品性が提示されているように思った。
 しかしそれにしてもぶっ飛んだのは、40年もなぜ書かなかったかという理由である。「妻が書くなと言うから」ということみたいなのだ。書く気がしなかったなどと妻をかばったりもするが、妻が嫌がるから書かない。妻は悋気な人ではなく、天真爛漫童女のような人で、けっこうよさげな出自でありながら、森に連れ添って、定職をもたない時期もあったりもしながら、きゃいきゃい楽しく生きてきた人で、森と二人して、別に風呂に入らなくても死にはしないなどと言い、馬路人が言わないと入らなかったみたいなのね。著者が、妻を風呂屋に連れて行き、ごしごし洗ったら、韓国あかすりどころの騒ぎでなく、とめどなく垢が出たというから、大笑い。「妻が書くなと言うから」ということを確かめるため、著者は森敦に聞くが答えない。書く気がしないなどととぼけている。でもって、妻に聞く。黙って答えないが、ようやく妻は口をひらく。だってあの人書き始めると、朝から酒を飲みながら書くの。普段は紅茶なのに。で、飲みながら書いたのはだめだって、次の日になるとビリビリやぶくの。それが続く。毎日賽の河原よ。しかも、自分が苦しむだけじゃなく、私にもあたるの。うるさいとかゆって。だから書くのはいやなの。それで、40年。著者が思わず「逝ってよし」といったかどうかわからないけど、著者は「なんと知恵のない夫婦だろう」とあきれてみせる。私淑し、ファンレターのようなものを書くことから交流は始まり、厳しく小説を仕込まれながら、なおこういうことを言う著者のスタンスは面白いと思う。
 森敦の小説は、私には難しく、また厚いので敬遠していたが、新井満が、森敦にいろいろ教わりつつ、小説家として成長し、かつシンガーソングライターとしてデビューしたみたいな文章を書いていて、でもってめんどいとかゆったら、中上健二が「モリトンに認められるなんてスゲエんだぞ」とかゆわれたと新井が書いているのをみて、そうかスゲエのかと思ったのがひとつ。でもって、森敦の本を読もうかと思い、文庫を買いに行き、一番薄い『意味の変容』(ちくま文庫)を買ってきて、ひらいてみたら、浅田彰が「森敦への手紙」なんつーものを書いている。なにこれ?モリトンって土俗的なオッサンじゃなかったのとか、アホ丸出しなことを考えつつ、読んで得心したしだい。森敦は数学もできるスゲエ人なんだ。そうか。などと思い。

 任意の一点を中心とし、任意の半径を以て円周を描く。そうすると、円周を境界として、全体概念は二つの領域に分かたれる。境界はこの二つの領域のいずれかに属さねばならぬ。このとき、境界がそれに属せざるところの領域を内部といい、境界がそれに属するところの領域を外部という(『意味の変容』p.23)。

 という作品のモチーフとなる文章をみて、ふーんなどと鼻くそをほじったのであります。このモチーフは著者の森富子氏にも投げかけられ、ちみにはわからんのかなどとからかっているくだりがあり、森敦の思想のへそのようなものだったんだと思われる。森敦は数学者になりたかったようなのだ。なりたかったのかという著者の問いかけに次のように答えている。

 「京城中学のころ、数学に集中し、数学者になれと言ってくれた先生もいたくらいだから、その気になった。ぼくが熟読してた本があった。『プリンキピア・マティマティカ』だ。ぼくは自己矛盾について考えていたから、この本を追求して反論したかったんだ。どんなに公理群をつくって、完璧な空間をつくっても、必ず矛盾がどこかに生ずるのではないか。これが証明されれば、最大の証明じゃないかと思った」。・・・「この世に生きて、何か一つだけでもいい仕事を残すことがあるとしたら、、自己矛盾について口で説くんじゃなくて、一枚でも二枚でも紙にぴしっと書いて、残したいと思った。これが密かなる、ぼくの野心だった」(p.58)。

 じゃあなんで森敦は数学者にならなかったかというと、ゲーデルがやっちゃったということなんである。1931年にゲーデルの論文が出たときに、森敦は第一高等学校文科に入学している。森富子の議論によると、森は高校入学してしばらくして、ゲーデルの論文を読み、もうだめぽ、と思って、「酩酊船」を書いたのではないかということのようだ。著者と森敦がこのやりとりをしたのが、60年代。浅田彰の「森敦への手紙」は文庫本では解説になっているが、『意味の変容』では本に挟み込まれていたらしい。まあそんなことをいろいろたしかめていくと、かなり面白いのである。『意味の変容』のモチーフは、私には数学的にはわけわかめだけど、これってジンメルの「橋と扉」じゃね?とか、思ったりもしますた。
 森から折に触れて、教わったいろんなことが書いてあり、小説に限らず、文章を書く人は、この本からいろいろなヒントを得られるような気がします。