読みと感覚−−趙治勲『地と模様を超えるもの』をめぐって

 今日も起きるのが遅かった。日曜はNHKで将棋と囲碁を見る。今日は、羽根直樹天元棋聖二冠王と宇宙流武宮正樹九段の対局を、趙治勲九段が解説するという豪華さで、見逃せない。趙九段の解説は、一時は照れて、わけわかめな冗談を言ったり、猛烈ハイテンションであぶねぇなぁってときもあったけど、すっかり落ち着いて、解説を行っている。解説名人としては、石田芳夫九段が有名で、手が見えるし、それを初心者にもわかりやすく、簡潔明瞭に説明するという点ではぴか一だと思う。それに比べると趙九段の解説は、私程度の実力だと理解しにくい部分もあるけれども、盤面の真実を追究しようというような、純粋さがあって、見るものの心を打つ。
 そこまでやらなくても・・・と言いたくなるくらいのぎりぎりの真実を追究する超九段の棋譜を味わう実力は私にはない。しかし、解説やなにかを手がかりにして、いろいろと刺激を受けてきた。珍しく自分の囲碁を語った『地と模様を超えるもの』(河出書房新社)は、愛読書の一つとなっている。五歳のときに名人に五石で対局したという天才が、感覚の部分をすべて殺してしまい、べたな読みだけで勝負しようと思ったという話は特に刺激的なもの一つである。また、地と模様という二項対立図式で、棋風を割り切ることに異議を唱え、その区分の無意味を棋譜によって示そうとする議論などは、一つの文化論としても面白いものである。
 研究をするときにぎりぎりのセンを追求しつつ、そこに陶酔して完全主義を気どったりせず、着実に論文を書ける人がいる。ゼミで議論するときも、言い負かし、自己顕示などだけではなく、その場の議論をより良いものにしてゆこうとするグループがある。そういう学問に接したときと同じようなワクワクした気持ちになれるのが、囲碁や将棋の面白さだと思う。
 趙治勲は言うまでもなく、数々のタイトルをとり、永世タイトルも取得しており、現在も第一線で活躍している棋士である。それだけに、真実は棋譜を見てくれといったところがあり、著作そのものは、所詮本で語れることはかぎりがあるといった風情がある。それは当然のことだろう。村山聖八段*1が亡くなったときの『将棋世界』の追悼号は、夭逝した村山八段への棋士たちの思いが、いろいろかたちであらわれていて興味深いが、そこで永世名人位を持つ谷川浩司は、死ぬ間際に昇段したリーグ戦での敗戦の棋譜をならべて欲しいと言っている。これに対して、「元天才」先崎学の文章は切々と悲しみを表現している。あわてて書いたという体裁のもので、書き出しは荒れているが、最後の一節には万感の思いが込められている。名エッセイストとしても知られる先崎の面目躍如である。ファンとしては、先崎に昇段して欲しいのだが。
 故芹沢博文九段の観戦記は、講談社文芸文庫に収めてもいいのではないかと思っている。諦観と自己韜晦が横溢したエッセイ類も悪くはないけれども、才気を発揮しようとして悪あがきしているようなところがある。しかし、観戦記はそういうアクがとれ、表現も抑え目である。いろいろ名作はあるけれども、身を焼きつくすほどあこがれた名人にあっさりなった弟弟子の中原誠の対局を描いた作品が特に印象に残っている。嫉妬に狂って当然の弟弟子の将棋に感激して、愚直だが中原の将棋には「夢がある」と、芹沢の観戦記にはめずらしく興奮気味に歌い上げている。気障に聞こえるかもしれないが、そこには、将棋への純粋な愛情があると思う。他の作品では、もう少し抑え目に将棋が語られている。こういうものが散逸しているのは、誠に惜しいと言わざるをえない。
 ンなことを考えつつ、囲碁を見終わり、仕事をし、ちょっと五輪を見て、横浜に帰ってきた。うだうだした後、五輪観戦。そのあと、マラソンながらブログ。

*1:『聖の青春』(講談社文庫)を参照。