お祭りの日はごちそうを食べる。これがきまりだ。近所の尾島精肉店のチャーシューに、魚幸鮮魚店のおさしみ、枝豆、そしてビールのほろ苦い香りなどが、幼い毎年の記憶として残っている。横浜のチャーシューというと、中華街の有昌がつとに有名だ。肉が引き締まっていて、塗られているたれも複雑な香料の香りがする。ファンも多い。*1それに比べると、尾島のチャーシューは少しやわらかめだけど、こんがりした焼き具合はこおばしくてまことに美味しい。*2焼きたてのものの、端っこのところを食べる。ちょっと焦げていたりすると、身震いするくらい美味い。職人だったぢいさんは、単純な料理が好きだった。料理学校でならうような、なんちゃら風なんて魚料理をだそうものなら、「魚は塩焼きに限る」などと憎まれ口をきいた。へたくそな解凍のマグロの刺身などには箸もつけなかった。ぜいたくなぢぢいだったけど、舌はたしかだったと思う。ぢいさんが美味いといっていたチャーシューは、三枚肉のチャーシュー。たぶん昔トンポーローをチャーシューにしたようなものをどこかのお屋敷の仕事かなんかでもらって喰ったんだと思う。職人は、食糧難を経験しなかったと豪語する人だった。野菜も魚もまずくなった、日本もおかしくなったとしきりに言っていた。それはたぶん至言だったんだと思う。で、お祭りのごちそうも外食になることが多くなり、弟が甥を連れて来ていたので、ジャックモールのといざらすで、おもちゃを買い、それから中華街に行った。楽園で、にがうり、巻揚げなど、いつものラインナップに、牛すじの炒めを食べた。中華街のお店は、その店の得意メニューを喰うのがコツだと思う。コックがかわらない家族経営の店が、味が安定していると思う。だから、うちはここに行く。理由はわからないが、いつもけっこう空いている。で、帰ってきて、メールほか雑用をすませ、五輪観戦。ソフトが負けたので、マラソンにした。ながら、ブログ。
最新の情報収集以外に、やっぱ洋書を読まなくちゃなあと思った体験をいくつか話したい。やっぱ訳しようがねぇなぁって言葉があることは、誰でも知っているだろう。社会だとかの訳語をつくった先人がすげかったというのは、柳父章氏の諸々の著作でつとに有名である。あるいは、数学の関数なんかは、英語で言ったほうが意味が明示されているみたいな話は、どこかで聞いた人は多いと思う。語源にさかのぼれみたいなのは、そういう意味だろう。社会学=ソキウス+ロゴスなんて説明は、全国の大学で説明されているはずだ。そんなこと聞いても「ケッ、日本語で読んだ方がはええよ」とかゆっていたのが私で、大学院入試の面接でなぜミルズをやりたいと聞かれ、「主要著作が全部翻訳されているからです」と答えたいうフォークロア?までできてしまった。そんな私が、殊勝に反省したのが、鬼丸正明氏などとやっていたヘーゲル『大論理学』の自主ゼミである。その冒頭に、大論理学の体系が判断だという珍妙な一文がある。武市健人氏は、判断に「原始分割」とさりげなく書き加えていた。なんじゃこりゃあああということになり、一時間くらい議論した。「判断」ってなんだよなんて、わいわいがやがや。でもって、辞書をひいているうちに語源で分割してみようかということになった。「判断=Ur+teil+ung で、ur=本源的、始原的、teil=分割、ung=ing」だろって誰かが言って、じゃあ訳書の注釈といっしょジャンみたいになり、なんでこんな注釈がついているのということで議論していたら、要するに大論理学の有論、本質論、概念論という体系が、なんかどっかべつのところにある論理図式をあてはめたみたいなものではなく、論理学を本源的に分割するとそうなるっていう解釈にやっと到達した。「な〜んだ」なんてみんな言っていたけど、少なくとも原語を知らないと訳書を見ても「判断→原始分割」っていう解釈はできないんじゃないかと思う。
これはまあ単語だけど、文章でもそういうのがある。名詞構文とか、名詞化表現というのは、誰でも一度くらいは聞いたことがあると思うんだけど、そこで、主語+述語という文章を、名詞+前置詞+名詞みたいに凝縮したような表現をつくりますよね。それってなんか人外的には知性の証明みたいになるということは、授業で佐々木高正師に習った記憶があって、『社会学評論』のサマリーつくるときに、ちょっと気どり、かつスペルミスをした恥ずかしい記憶があるけど、まあそれはともかくタイトで練りこんだ表現になるっつーことは、感覚的に私のようなアホにもわかる気はしますた。英語のできる人って、この辺の文章の息遣いみたいなのを、むかつくくらいうまくとららえて訳すカンジがして、めっさうらやますぃ〜なんて嫉妬に狂った時期もあります。こっちが、「of」が主格、所有格、同格、目的格????なんて、おろおろしているところを、余裕たっぷりで、文や単語のニュアンスを心地よく吸い込んで、プワ〜ッと吐き出す訳文は、ところどころ小憎らしいくらい余計なもんを省いていたりして、だけどツボは絶妙にわかっているzE!ってかんじで、すごいもんだなぁってあきれ返り、英英辞典を使うってこういうことかよなんて思ったもんです。思い出すのは、大学一年の英語の授業。まぐれで受かった私は青息吐息、そこに二人高1で英語検定1級とったというとんでもないのがいて、かっこよかったなぁ。二人とも外務省にいったらしいけど。私が、クラスで二人だけ優をとれなかったうちの一人であることは、前にも話しましたっけ。
で、そういう凝縮が逝き過ぎたと思われるのが、G.H.ミードの英文なんですね。これは私が言うことで、そんなにはあてにならないかもしれないけど。とりわけ『現在の哲学』はそう思う。これは書いてないにしても、ミード自身が校閲した唯一の講義ノートですよね。それがなぜ理解しにくいかというと、そんな感じじゃないかと思うのです。他の文章は、それほどじゃないけど、この著作のわかりにくさ、ジェームスがあの椰子は書くとだめなんだよとかゆったっつー意味は、こういうことなんじゃないかと思います。『現在の哲学』泣きますよ。馬路。一度訳そうと思って、大学院生や京都大学の大学院に行った学部生とひと夏つぶして読書会したけど、馬路ギブ。訳さずに、おろおろパラフレーズして終わり。これを読みほどくには、ニュアンスするだけじゃなく。太い論理で読み解く力量が必要だと思います。河村望氏が、暫定的な訳だけどと言いつつ、訳しあげてみせた訳書が出ておりますが、その辺を参考にして、英文を見てみると面白いんじゃないかと思います。あるいはパースペクティブ論文に、相対性理論にまで遡及して注をつけ、河村氏の訳文に挑んだ加藤一巳氏なら理解しているのかなぁなどとも思って見たりもします。っつーか、やっぱある書き手と「仲良し」になるってことは重要なのかなぁ。ルーマンとか、ヘーゲルとか、へっちゃらに読む人いますからね。
全訳しなくていいなら、「in short」とか、「たしかに・・・だが。。。。」の「。。。。」の方を探すとか、常識的な方法で、キーセンテンス探して、言いたいことを掴み、あとは段落ごとに理論構成、理論展開を要約して、再構成し、あとは理論展開、理論構成をメモすれば、できちゃうんだろうけど、そんなのばっかじゃつらいかなぁ。でも、そんな方法でも、一冊読むと自信になるしね。清水幾太郎も言っていた。洋書を読めるようになるには。「買え!」。
さて、そろそろマラソンみようっと。