みこしをかつぐ

 今日は横浜「野毛の祭り」である。野毛の祭りは八月第三週の土日にある。土曜日は子供の山車や、みこしが出る。そして日曜は大人みこしがでて、付近の町内合同の大騒ぎとなる。私の実家があるのは、戦前の野毛裏、現在の宮川町である。ここは丁目かかわりなく合同だが、野毛、花咲などの町は、一丁目、二丁目と丁目ごとにある町内会単位で参加する。最近まで桜木町も参加していたが、なぜか今は参加していない。マンションが立ち並び、町内会という組織が維持できなくなったのかもしれないなぁなどとも思う。私はものごころついてから、ほとんど毎年、40年以上もみこしをかついできた。もっとも、地元民としてのそれなりのカオはあるものの、地元に根付いた庶民であるなどとは言いにくい面もある。基本的には町を出て行った武蔵野市吉祥寺住人であるし、またこどものころから、大学や学会でと一緒だけど、無愛想でろくに挨拶もできない人間であった。かわったやつと思われているにちがいない。
 私が子供の頃は、子供もたくさんいて、野毛の祭りは盛大なものだった。みこしだけでなく、山車もそこにくわわり、行列をつくって、町内から町内へとねりあるく。先頭には、高下駄履いた天狗さんと、伊勢山神社の宮司さんと、「てこまい」といわれる諸町内よりすぐりの「美女軍団」が先導し、町内ごとのみこし、山車がそれに続く。野毛は、闇市の街であったが、その余韻を残す戦後しばらくのあいだは、占領されていた伊勢佐木町付近にかわり横浜一の繁華街となっていて、メインストリートは大変なにぎわいだった。伊勢佐木町、さらには横浜駅西口の繁華街が栄えるとともに、野毛の商店はそちらに出店を出し、商店はそれにより大きくなっていったものの、野毛の街はだんだんとさびれていった。それでも最初は住居とかはあったわけだけど、郊外に引っ越す人も出てきたし、また高度成長期の日本は、京都タワーをつくっちゃったり、日本の海岸線を全部コン栗で護岸しようだとか、古臭い建物はぶっ壊して新しい街並みをつくろうだとか、そういう文化が優勢であったこともあり、近隣の町内はみこしなんか時代遅れと、バス旅行だとかに切り替えて、祭りをやめちゃったりしていた。
 それが、一億創生だとか、町おこしだとか、レトロブームだとかがあったせいもあり、再開発に失敗し、取り残され行く街の復興策の一環として、「野毛の大道芸」だとか、「野毛の祭り」だとかが、始まった。地元出身の衆議院議員や市会議員なども挨拶して、ま、そういう具合の祭りでもあるのだ。地元には危機感がある。象徴は、東横線桜木町駅の廃止と、みなとみらい線の開通。伊勢佐木町横浜駅西口に続き、三菱地所を中心としたみなとみらい地区の開発からも、とりのこされた街が野毛地区である。まあ、占領されなかった偶然だとか、闇市の名残などで、一時的に栄えただけとも言える。昔から、米軍だとか、船乗りだとか、あるいは京浜工業地帯の労働者だとかを相手にした歓楽街の一翼をになっていた。うちの近所でも米兵のオンリーさんになって、アメリカに嫁いだ人もいる。お兄さんお姉さんがハーフの日本人なんていうのもいる。こんな野毛が、一変したのは、やはり場外馬券売り場ができてからだと思う。地元は大反対だったが、土日は大変なにぎわいで、結局競馬の街になり、競馬に反対していたかどうかにかかわらず飲食店はみな「競馬中継しています」なんて看板をかかげることになる。競馬喫茶シンザンなんていう、オールドファンには涙モノの喫茶店もある。そして、競馬客の遊び場として、裏表の歓楽街はさらに拡大した。得体の知れないゲーム喫茶はあるわ、なんで喰ってるんだろうっていうような扉を閉め切った飲食店はあるわ、すごすぎである。80年代の風営法改正で、東京から業者が流れ込み、曙町にヘルス街ができ、それがうちの近所にまで広がった。そして、桜木町駅前のゴールデンセンターと呼ばれたテナント制百貨店ビルが、三菱地所から花月園に売却され、競輪の車券場ができるとかで、問題になっている。それが実現すれば、さらに競艇やオートだってありえるだろうし、もう石原カジノ構想もぶっ飛ぶような自生的博打タウンができあがることになる。競輪とか平日もやってるからねえ。すごいことになるだろうね。
 しかしまた、野毛裏宮川町は、下町風情を残すところである。うちが左官、となりが塗装、近くには鳶の親方などの家もあり、いろいろな商店が軒をならべていた。団塊世代の戦後二世のむすびつきが強く、少年野球チームで地区大会を優勝したり、また連合町内の運動会などでも常勝だった時期があるようだ。それが二世会というものをつくり、夜警をやったり、いろいろ町内の仕事をしていた。トン汁囲んで飲んだりするのが楽しみだっただけだと思うし、街づくりもへったくれもなかったと思う。この人たちが祭り好きで、宮川町だけは、他の町内がみこしをやめたときも、ずっとみこしをつづけていた。山車も出していた。山車なんかは、ガキがいなくなると、近くの保育園の連中がたくさんでひっぱっていた。水商売の女性たちが子供をあずける24時間保育の保育園で、おそろいのいでたちで山車を引く姿は、なかなかに頼もしかった。みこしは、友達とかつれてきて、そこに「少年野球部」がくわわると、もうそこの空間だけは岸和田ダンジリ状態。すげかった。今はかつぎ手も減って、睦会とかのかつぎのプロなんかも参加して、かなり整然とかついでいる面もある。だけど、当時はもう縦横無尽に揉みまくりで、かけ声ももうバカ騒ぎに近く、いでたちも女装あり、化粧あり、コスプレありで、肩の皮膚をベロベロにしてかついでいた。めちゃくちゃだったけど、あのころの盛り上がりはやっぱ一番楽しかったんじゃないかと思う。だいたい、アテクシは挨拶もしないくらいだから当日黙ってかつぐだけだけど、祭りの日まで待てなくて前夜祭とかゆって盛り上がって、夜に勝手にかついじゃったりしていたし、馬路すごかった。っつーか、やばかったかも。なかなか終わらなかったし。今と当時は、弘前と青森のねぶたくらい違います。かつぐなかに入れたときは、バンジージャンプで大人になったくらいの達成感があった。
 町内連合の祭りになってからは、それほどのめちゃくちゃはなくなった。それでも、朝から晩までかつぐと、一日で体重が五キロくらいへったかなぁ。私はひたすら、中のほうに入って、人に見られないようにかつぐ。二世会の人々は、完全にご隠居くらすで、時々かつぐけど遠巻きにする。昔がきんちょだった三世なんかも、世話人になり、「若いモンに任せる」とかゆっていて、なかなかに愉快である。その世代は人数も多く、しばらくは盛況が続くのではないか。私の世代は、町内で人数が少ない。わたし同じ年齢は町内で三人。ずっと続けてきた成人式の行事がとりやめになった学年である。わたしは、ガキの異年齢集団の中で、けっこういじめられていたりして、孤立していたはずが、なぜかかつぐことは続けている。町内の人たちも、儀礼的無関心で接してくれている。ただこの人たちがいるので、親は心配一つなく町内で暮らしている。はす向かいのおやじが最近具合が悪いのだが、うちの親だとか、いろんなおせっかいが見に行っている。孤独なマンション暮らしの独居老人が、夜中にコンビニに集っている吉祥寺とはだいぶ違うように思う。街では、世界万国の人々をみかける。不動産屋には「外国人歓迎」なんて書いてある。この場合の人外は、欧米白人ではない。だけど、この人たちは祭りではギャラリーに徹している。めっちゃたくさん見てるけどね。いっしょにやればいいのにとか思っている人は、そんなにはいねぇだろうなぁ。しかし、うちのばあ様なんかは、人外にハローとか、サンキューとかゆってたからね、わかんないなぁ。
水泳で鍛えていても、一日中かつげる程の体力も技術もない。午後からかついだ。それでも、神経症が酷くてあまりかつげなかった頃とはだいぶ違う。あのころは、十分くらいかついですぐにかえっていたからね。