洋書の読み方について

 洋書を読むというのは、思想や文化を理解するためとか、最新の情報を得るためとか、いろんな理由があると思うけど、そのくらいのことができるというのは、学部上級生から大学院生くらいでは必須用件というのが、一応のたてまえになっているんじゃないかと思う。必要な範囲の外国文献を集め、テキストクリティークをしてレビューを行い、それを理論構成、理論展開につなげると言うのは、まあ言ってみれば、学問の作法、学問修行の通過儀礼 passing みたいなものであろう。と同時に、「読める」ということは、学問へのあこがれをかたちづくっているんじゃないかと思う。私もそういうあこがれをもったし、正直言って今もあこがれている。その語学の苦手な私が、洋書を読むという passing 「やりすごし」をしてきた体験を、いろんな洋書の読書法を読んだ体験を中心に書いてみたい。書くのは、ごくあたりまえのことである。できる人たちは、バカにするかもしれないけど、うちの学生にはけっこう役に立つ話だと思う。
 いろいろ洋書の読書法を読んだけれども、そのなかでもっとも震撼したのは、猪口孝『社会科学入門』である。一日一冊洋書を読む。たいへんだけど、頑張れば読める。そう書いてある。すごすぎ。同氏の著作などを読むと、これははったりなどではなく、実践されていることだろうというのが、ありありとわかり、できないものは二度萎えるだろう。
 森毅氏。いろんな本に同じことが書いてあるけど、要は片っぱしから辞書をひいて、一番最初に書いてある意味を片っぱしから、わからない単語の下に書いてゆくのはだめ。ゆるゆると読んで、ある程度見当をつけてから、辞書をひく。そうすると文脈を読めるようになるし、語義もぴたりときまる。同じようなことは、清水幾太郎氏も言っている。洋書の読み方。辞書をひかないで読む。わかんない単語があっても、びびらずに読みきる。何度も読んでいれば、文脈が見えてくる。清水氏は、語学の天才と言われた人だし、一般ピープルには参考にならない気もするが、この二つは一つの要点をついていると思う。
 ここで思い出すのが、ある先輩の言葉。悩んで相談したら、話してくれた。「おまえ、日本語もそんな早く読めるのか?読めねぇもんもあるだろ」。そりゃそうだよな。たとえば、清水盛光『集団の一般理論』なんかは、何度読んでもわかんないよ。あと全部精読するわけじゃないよな。一橋大学の論理学担当教官の家に遊びに行った友人の話。論文にも本にも必ず一行〜数行の要約がついていた。朝六時起きして、昼まではどんなことがあっても勉強しているというこの先生の猛勉強は有名で、所蔵しているすべてに目を通していると言うのはすごいけど、まあそれでも、こういう読みかたなわけだし、社会学だって、アブストラクトとコンテンポラリー(書評誌)読んでればなんとかなるとかいう人もけっこういたし。サムエルソンが、壁うちテニスみたいなのをやったあとシャワー浴びる間に一本論文を読んでいたというのは有名な話だけど、これもそんな読み方だろうし。
 あと、一定レベル以上の人なら誰でも知っていることだけど、熟読しようと思ったら、最初の五十ページくらいを耐えろということ。これも清水幾太郎氏がいっていたような気がする。語彙はかなり限られているから、それからあとは早くなるということなんでしょう。学部レベルだと、『試験に出る英単語』の最初の頃の版をまとめて覚えると早くなると思う。恥ずかしい過去を言えば、私は大学院受験のときも、これをつかいますた。社会学なら、ギデンズのテキストをともかく読破すると、単語力という意味でもいいんだろうね。
 まあただ一番重要なのは、モチベーションじゃないかなぁ。青春の劣情の時代、英語でポルノ読むとすげぇ進むっていうじゃないですか。プロレス雑誌を英語で呼んでいた時期あったなぁ。ファッション誌読んだなぁとか。ネットだって、知りたい、調べたいというモチベーションがあると、英語でもなんでも読みますからね。単語の見当だって、つきまくりでしょう。商売、恋愛・・・モチベーションのある人はあっという間に読めるようになる。必要に応じて、翻訳ソフト使いまくっている人もいるらしい。たしかに電子資料もあるからね。
 留学したいと言う学生諸君は多い。テキストを洋書にしようと言うと、猛反対する。大学院生もおんなじ。モチベーションは、持てない方が悪いの、もたせない方が悪いの?