デパートのお好み大食堂−−横浜松坂屋で研究会はいかが?

水泳800メートル金メダル、ソフトボール決勝T進出だとかがあって、またついつい夜更かしをしてしまった。昼前に起きて、雑用をすませる。そのあと、元町プールまで歩いてゆき、今日は2000メートルロング一本、いつものクレープや@元町商店街北端でいつものバターシュガーを買い、歩き食いしながら、てくてく伊勢佐木町有隣堂へ、立ち読みをして帰ってきた。
 行きかえりの道は、なかなかの散歩コースだ。中華街、元町、山下公園などは、生まれた病院の至近距離であり、薬待ちの間に食事をしたり、うだうだしたりしながら成長した。山下公園からみなとみらい地区までもとの貨物列車の線路に沿って遊歩道ができて、そちらに足を伸ばすこともできる。それだと歩きすぎという場合は、ワールドポーターズ付近から、橋を渡って海岸通ー伊勢佐木町方面へ、そして生糸検査場を通り、馬車道まできて、どこかでお茶を飲んで、有隣堂へなどというコース。昔、馬車道交差点のかどにコーヒー屋があって、カウンターだけの店だったけど、コアアメリカンな店で、大きいカップのミルクコーヒーとホットドッグを食べ、一休みするとちょっと大人の気分になったような気がして、なんつーかゴキゲンであった。最近はないみたいだし、ラテ系の喫茶店とか、ドトールとかも悪くないけど、土曜とかは混んでいるし、結局前にも書いたいつもの松坂屋の喫茶室にいくことになる。きれいで空いている。パンプディングがおいしいが、でかいので体に悪い。ここで原稿のチェックなどをすると、ちょっとすかした気分になる。こーしーカップを持つ手の小指が立つと、思わず自己嫌悪になる。
 横浜松坂屋は、野澤屋デパートといい、今は会員制の場外馬券売り場になっている建物*1と二館をもつ、一大百貨店だったが、横浜駅西口に押されて、閑古鳥でもって景気が悪くなっちゃった。経営は松坂屋が買い上げて、横浜松坂屋になったが、毎年のようにやばい会社リストみたいなのに載り、一館をJRAに売り飛ばした。今日の新聞にたまたま出ていたが、高島屋の売り上げ160億あまり、松坂屋は9億円である。ただ建物が自社ビルで、つぶれることはないのではないかというのが、地元民の期待である。戦災からも焼け残った建物は、となりのJRAのたてものともども、今ではありえない重厚な風格がある。
 横浜松坂屋で忘れてはいけないのは、上の大食堂である。今デパートの食堂というと、さぼてんか和幸のとんかつ、はげ天のてんぷら、銀座アスターの中華・・・みたいな、テナントワンセットみたいなのがデフォルトで、そこになにか目玉のテナントがくわわり、食堂街になっているというパターンが多いと思う。一部の高級百貨店は、老舗のとんでもないラインナップをそろえていたりする。しかし、昔はデパートの食堂と言えば、お好み大食堂という体裁で、和洋中から喫茶までなんでもあり、屋上の遊園地で遊んだあと、大食堂でお子様ランチを食うというのが、ガキの楽しみだった時代がある。あれって今ないかなぁ・・・と思う方は、ぜひ横浜松坂屋へ。混むとイヤだからあんまり教えたくないんだけどね。まだあるんすよ。お好み大食堂。ふつう新しいスタイルに変えたり、リストラされちゃったりしたところが多いんだと思うけど、頑固一徹古色蒼然、まさにディープ昭和な大食堂。ファミレスとはまったく違うもの。懐かしいッすよ。ともかく、空いてるからね。三時間くらいいても、まったくノープロ。しかもでかいわけ。うちの親なんかも、書道展覧会とかのあつまりがあると、十数人で行って、あんみつ一つで井戸端会議なんかしているらしい。
 伊勢佐木町もさま変わりした。メインストリートは、全国に先駆けたモールだったはずが、バブルがはじけて、大衆的な価格の店が優位になり、コンビニができ、ファストフードがたちならび、あちらこちらで若者や、外国人の家族などでにぎわう街になった。しかし、奇跡に近いかたちで大食堂はのこっている。一種猥雑化して、ハイブリッドになった街は、ゆずを生み出したストリートになったという人もいる。しかし、大道芸的なものや、ストリート音楽も、特定プロダクションが幅利かせたりして、おでぃしょんなんかもブイブイゆわしちゃったりしているらしいから、やだなという気もする。これはとあるライブで、あるミュージシャンが言っていた愚痴だけど。
 かき入れ時の土日の競馬の日になると、こうした私の散歩コースのいたるところに、携帯を持った若い女性が、たくさん歩くのを目にするようになる。しゃべる言葉はさまざまだ。おそらくは横浜のコアな歓楽街で働く人々だろう。日の出町から、黄金町にいたるガードしたには、間口一軒ほどの小料理屋が何百件もならんでいる。夜になるとピンクネオンの異次元空間と化すちょんの間街だ。24時間、万国女性が客を引く。この川沿いの道は、柳美里の『ゴールドラッシュ』冒頭で描写されたまんまのところだけど、ここがアテクシの幼稚園への通学路であった。ここを歩くと、地元民もへったくれもなく、声をかけられる。スルーして、小此木材木のあたりで橋を渡り、幼稚園のチャペルを懐かしみつつ、若葉町のあたりを通過、ここは夜になるとSGが集う地域である。そして、探偵浜マイクの映画館があったりもする。伊勢佐木町どおりを越えると、曙町の旧赤線地域。今は一大ヘルス街。道路を渡った、旧真金町遊郭大門あたりからはラブホ街、そこを南に抜けると日本橋花柳界である。中学高校の頃は、日本橋の将棋道場に通っていた。通う道は、上に書いたルートである。*2
 高級商店街から、ハイブリッドなストリートへ変わりつつある伊勢佐木町*3そこに戦前からある百貨店の建物にある大食堂は、ディープ昭和な雰囲気で、かつゼミなどやるのにイイということが、ここで言いたかったことである。

*1:ここは元松屋デパート。銀座や浅草にあるこの百貨店は、高級品を置いていることで有名。銀座、浅草、横浜というのが、らしい出店であろう。

*2:前にも書いたが、私の実家のあるあたりも、日本でも有数のホモバー街、あとはラブホ、ヘルス、ストリップなどがたちならぶ歓楽街になりつつある。

*3:青江ミナの歌ったブルースは、一路裏の通称親不孝どおり、曙町付近の情緒を歌詞にしたものらしい。