クルド人の笑顔−−高島善哉と「偉大なるジャーナリスト」をめぐって

 よせばいいのに女子体操まで、最後まで見てしまって、また昼まで寝てしまった。起きて読書、ネット、五輪よかったねテレビなどを、複合ザッピングしつつ、パンといつもの手の字の肝焼きを食べる。うだうだして、阿佐ヶ谷に行く。友人に会い、富士ランチでメシを食った。北口郵便局の前にある洋食屋だけど、コアな洋食ファンなら涙モノのフライ、ソテー、ハンバーグなどのラインナップであり、そして店構えが昭和と言うか、むしろ大正っつったほうがいいくらいのレトロぶりであって、それがなじむ阿佐ヶ谷はすごいところだと思う。なんで阿佐ヶ谷にいったかというと、お祭りで横浜に帰省するので、ウサギやでドラ焼きを買うためだ。しかし、作業場改築とかで九月初旬までやらないらしい。上野店などで買うしかない。とほほ。ウサギやは、鮎京正訓氏に教わったのだが、大変おいしい和菓子屋である。ドラ焼きなどは地方発送は一切しないという頑固職人ぶりで、地元民の信頼を集めている。この店内に、善哉名の書がある。店の奥に誇らしげにかかっているのだが、まさかこれ高島善哉の書じゃないよなぁと疑問に思い続けている。
 高島は、阿佐ヶ谷に住んでいた大学の大先輩であり、『民族と階級』などを著した社会科学者であることは言うまでもないだろう。学生時代学生誌のインタビューに行くと、とある友人が言うので、一緒について行き、お話をうかがった。民族という視点、実践としての読書という視点などのほかに、経済社会学についての話を聞こうというのが事前の目論見だったように思う。しかし、今聞いた話で記憶に残っているのは、ヒューマニズムというものをバカにしないで見直すべきじゃないかということだった。『アダムスミスの市民社会体系』に集約されるのが、戦前からの経済社会学の骨法だったとすれば、なかなか含蓄ある話だったと思う。高島宅からの帰り道、真っ先に話題になったのは高島の書庫である。宅地の中に別棟二階建ての書庫があって、外から本が見えた。碩学のものすごさを目の当たりにして、圧倒され、著作集は絶対買わなくちゃななどと言いながら、阿佐ヶ谷駅まで歩いた。友人は、歴史学を学んで進学するか、あるいはジャーナリストになるか悩んでいたと思う。私のような芝居がかった人間が見ても、いささか芝居がかっていて、酒を飲むと「偉大なるジャーナリストになる」などとほざいていた。彼から、卒業のときに宮島喬『デュルケムの社会理論』と『アダムスミスの市民社会体系』をもらったが、サインが入っていて「偉大なる社会学者I氏へ」などと書いてあったのでぶっ飛んだ。友人はジャーナリストになった。
 友人とは、大学時代の寮で同室だった古山順一@朝日新聞である。古山は、現長野県知事と同じ雑誌をつくっていて、路線対立から三浦展氏などといっしょにそのサークルを脱退した人であり、その後硬派の新聞記者となった。瀕死の重傷を負いながら徳山村に通い、徳山ダムの問題を取材した『浮いてまう徳山村』を公刊したときは、彼らしいと思った。整理部、外報部、テヘラン支局長などを経て、現在はベルリン支局長となっている。年賀状も、二年に一度というカンジでしばらく会っていないけど、時々思い出したように連絡をくれる。昨年は『クルドの肖像ーーもう一つのイラク戦争』(彩流社)という本を送って下さいました。「国民なき民」の視点から、イラク戦争を見つめたものです。写真も多数で、胸をうつものがございました。この本の略歴を見て、『テロリストの軌跡ーーモハメド・アタを負う』の取材チームの一員として新聞協会賞を得たことを今回はじめて知りましたが、まあスゲェ仕事やってるなぁとしか、言いようがありませんわね。新聞に掲載された記事では、ドイツ発サッカー記事くらいしか読んでないんだけど。
 ともかく、「偉大なる」に限らずクサイくらい思い詰めたこと言うんで、ハスなこと言って随分からかったし、名古屋の飲み屋で怒鳴りあいの言い合いしてアテクシは速攻帰っちゃったりしたこともあるんだけど、やばいところで身体はって取材するジャーナリストという志を貫いていることは、むかつくけど認めないわけにはいかない。あったら、撃ち殺されたオッちゃんたちに比べれば甘いんじゃないのくらいは言うんだろうと思うけど。今回の著作は、そういう部分ですごいなぁと思ったこともありますが、古山が良知力のゼミで歴史学を学んでいたということを思いだし、「らしい本」であるなぁと感心した次第です。要するに『向こう岸からの世界史』の良知力の視点から深く学び、自分なりの視点を育てて来られたということが、実感されたからであります。「国民なき民」の「ある家族」の視点から、イラク戦争を丁寧に読み解くことで、フセイン国民国家とも、ブッシュの国民国家とも違う社会科学的な視座を浮かびあがらせている。『民族と階級』や上原専禄の『歴史的省察の新対象』を読み、上記のインタビューに行ったことなども思い出しました。『ドイツイデオロギー』や『フォルメン』の難解な語句が、達意の日本語と取材写真として具現しているような気がして、感動を覚えました。
 写真のほとんどが、生き生きと笑うクルド人たちを写していることが、重厚な残像となって残っています。阿部キンヤは、『向こう岸からの世界史』にこそ良知力の真実があると言っていたといいます。私は良知の作品では『青きドナウの乱痴気』にどうしてもひかれるものがある。そして、向こう岸の国家のようなものを古山の言説に感じて、反発したこともあった。しかし、クルド人たちの笑顔は、ケチな反発心などとは異次元のものとして、輝いています(文化社会学掲示板より一部転用)。